春の海

先週のよく晴れた水曜日、自転車で海へ行った。


山に囲まれた田舎で生まれ育った私にとって、海は遠い存在だ。
友達と「海に泳ぎに行こう!」と日帰りで出かけたことなんてなくて、海に行くのは旅行のときしかなかった。
車や電車を使えば数時間で行ける距離なんだけど、日焼けも人混みも苦手だからって理由もあって旅行以外では行かなかった。わざわざ行くほど好きなわけでもないしな、とか思って。


結婚を機に、海のある町に引っ越した。家からはさすがに見えないが、通勤に使う電車は海沿いを走る。毎日のように眺めるけど、3年ほど経っても正直あまり身近な存在には思えなかった。
たまーに、外の空気が潮っぽくて海苔みたいな海藻みたいなにおいがして、“あっ、ここ、海が近いんだった”と思い出す。それくらいの距離感。



4月からの復職が正式に決まり、あと10日ほどなにをして過ごそうかなと考えていて、ふと、海を見に行きたいと思った。
突然そう思った理由はわからない。
最後の機会だからなにかいつもと違う、特別なことをしなきゃと思ったのかもしれない。ほんとになんとなく、不意に、海が恋しくなった。

調べてみたら、歩行者と自転車だけが通れる散歩道が近くにある。
よし、明日晴れるからここに行くぞ!と急遽決めた火曜日の夜。寝る前は少しわくわくして、うれしかった。


自宅から散歩道付近までは大きな道を自転車で40分ほど走った。ほぼ平坦な道だったけど、それでも40分も漕ぎ続けたことはあまりなく、体力のない私は既にゼエゼエとなっていた。
そこから散歩道までの道は、よそものが入っていいのか心配なほど狭い路地をくねくねと通りぬけて、最後は見たことがないくらい急勾配の下り坂だった。

思っていたより体力を消費して到着した。でも、坂を下り切ったら視界いっぱいに海が見えて、達成感でとても嬉しくなった。疲れが和らいで自然と笑顔になり、これが海のある町の特権か〜!と思った。


平日の昼前、人はとても少なかった。
散歩道を3キロほど走っていて見かけたのは、釣りの準備をしているおじさん、わいわいとじゃれ合ってる男子学生3人組、お散歩の老夫婦、サイクリング兄さんが2,3人通り過ぎて、あと、海を眺めるお姉さん。それくらい。
人が多いより、全くだれもいないより、たまに見かけるくらいがちょうど心地良いなと思った。


散歩道は車やバイクは通れない。ゆっくりゆっくり、潮風を感じながらのんびりと自転車を漕いで、たまに止まって海を眺めて。
数十メートルごとに、砂浜に降りる階段がある。自転車を停められる、人気のない浜の階段を選んで降りてみた。砂浜というよりは、貝殻だらけで砂利っぽい。ザクザク歩いて、波打ち際まで来ると砂浜にかわった。

波の近くの岩場に腰を下ろして周りを見渡す。視界の中で動いているのは海、雲、鳥。
散歩道を挟んだ向こう側はずらっと建物で、人の姿は全然見えない。壁になっているからか町の音もあまり聞こえない。
私は今、この素敵な空間を独り占めしている。
よく晴れていて、とても気持ちが良かった。

裸足になって、砂浜にそっと乗せてみる。この感触、何年ぶりだろうか。まだ3月なのに、海で砂浜を踏んでいる。ひとりぼっちで。くすくすと笑いがこみ上げた。
ほんとは海に足を浸けたかったけど、右足指を怪我しているのでそれは諦めた。砂浜だけでもじゅうぶんに非日常を感じられて嬉しかった。


座ったまま、しばらくぼーっと、穏やかな海を眺めた。不規則にザザーッと打たれる波は見ていて飽きない。
休職前のこと、休職期間のこと、職場のこと、友達のこと、いろんなことを考えた。ネガティブなことやつらい気持ちをたくさん考えたけど、晴れて明るくて心地の良い空間にいて、いつものように落ち込むことはなかった。

靴を履き直して、また貝殻浜を歩く。
きれいな形を保ったまま打ち上げられた貝殻、牡蠣の殻ほど大きな貝殻、貝殻に紛れていたゴルフボール。
どこの地域で使われてたゴルフボールなのかな。どれくらいの時間をかけて、この浜に辿り着いたのかな。そんなことをぼんやり考えたりもした。


海をたっぷりと満喫したら、また1時間ほどかけて家に帰った。久しぶりに体力をすごく使った。



夕食時に、今日はなにしてたの?って聞かれて、夫ちゃんが働いてる時間に遊んでて後ろめたいなと思いつつ、海に行った話をした。
「あんな遠いとこまで自転車で行ったんや!今日は〇〇ちゃんの大冒険やったんやな!」って、返事をしてくれた。うれしくなって、ゴルフボールが〜とか、最後の坂道が〜とかあれこれ話すのを、楽しそうに聞いてくれた。優しい人だ。


海が好きじゃない夫ちゃんは行くこと自体には興味がなさそうだったし、また忙しくなれば私もこれからはなかなか行かないだろう。暑くなると日焼けするし、休日は人が多そうだし、ね。
このタイミングで思い切って行って、大正解だった。とても良い日だった。


ひとつだけ拾った小さなオレンジ色の貝殻と、数枚撮った海の写真。
この休職期間の大事な思い出として、宝箱にしまっておいた。いつか思い出して、また嬉しくなれるように。



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