【完成版】排泄のプライドとオーバードーズ
「文章は、
いや文章に限らず
あらゆる表現というものは、
排泄物のようなものだと私は思う。」
京極夏彦 『魍魎の匣』
これは作中に出てくる
関口巽といううつ病の作家のセリフだ。
彼はコンプレックスの塊であるが、
やや自己愛の強い人格でもある。
そのバランスが絶妙なキャラクター。
関口巽に対して思うこと
私はこの思いに賛同する、
しかし、反して思うところもある。
自分の排泄物を読んでくれる人には、
私は向き合うべきだと考える。
それは物理的に向きあうということではない、
それも説明していく。
↑
ちなみに排泄感覚については二日前
投稿した、このnoteに書きました。
作品とボットン便所は同じか
田舎にある祖父の家は、
ボットン便所だった。
だから定期的にバキュームカーが来て、
糞尿を吸い上げに来てくれる。
バキュームカーが来ることが当たり前ではいけない。
その人たちが
来てくれないことには
祖父たちは快適な生活が送れない。
それは表現にも通づる点があると思う。
排泄物を撒き散らす記憶
小学校低学年の頃に遠足で、
訪れた動物園。
正直どの動物もみんな寝ていて、
つまらなかった。
お土産を買うことはダメ。
ボートに乗ることもダメ。
鯉に餌をあげるのもダメ。
お昼のお弁当の時間まで、
同じ班の子と、寝ている動物をぼーっと見る。
そしたら、ふと
寝ていた、
カバがすくっと立った。(サイだったかも)
その姿にワクワクしていたら、
四方八方に糞尿を尻尾で巻き散らかして、
また寝転んでしまった。
大人になった今でも
忘れられないくらい
子供心ながらに衝撃的光景だった。
あんなに飛ぶんだとか、
その時の匂いとか、
そうか紙でケツを拭かないから
垂れ流しなんだ…とか、
周りの騒いでいた同級生の
声を聞きながら、
妙にそのカバの糞尿に
「そうかそうか」と納得していた。
排泄をする感覚で表現するなら、
心の余裕があるときくらいは
小綺麗にしときたいという
プライドが私にはある。
だから、関口巽のように
「発表した作品に対して加筆したり、
修正を施したりすることは一切なかった。」
だなんて、おざなりな対応は私はしたくない。
それじゃあの日のカバと同じじゃないか。
でも、ゆとりがない時は
無理だってのもわかる。
そのときはそのままを提供する。
本当は、必死な時は提供する意識なんてない。
いつもの手癖で何となく習慣ついてるだけ。
自作=人生という名の養分の絞り粕
という思想は持っているけれど、
搾かすを出すなら、
最低限の礼儀がいるだろうと思う。
「"排泄物"の見栄えを良くしようとする作業に一体何の意味が?」
と思う前に、
私の美学がそれを許さない。
「自作を喩えるなら排泄物」というこの考え方は、
一見、自作に対して愛がないように思えるのかもしれない、
でも小綺麗なものに喩えないと可愛がれない愛って何だろう。
そんなの愛じゃないと思う。
もっと薄っぺらいものだ。
汚いものにさえ愛おしい気持ちが
湧く領域まで行ってからが
愛情ではなかろうか。
小娘の私はそう思う。
読者さんから
紹介していただいた
記事を元に自分の意見を書いてみました。
「下手で申し訳ない」という自衛術
私は排泄感覚で作品を書いていますというnoteを読んでくださった
読者さんから阿瀬みち氏のこのnoteを紹介していただいた。
これを読んで私も、
同じようなことを思った。
webでふらっと見に来た相手にまで
「下手で申し訳ない」とへりくだる必要はないと私は思う。
合わないと思えばスルーすればいい。
ミュートかブロックすればいい。
(過激なコンテンツを露骨に置いとくのは別として)
それをしないのは相手の判断と行動が足りていない、
そこまで私のせいにされたらひとたまりもない。
自分に合わない人が許せないのは子供までだ。
自分の幼稚さを晒したいという目的ならそれでいい。
私の作品も、
結局はこれまでに私が読んだ本、観た映画、聴いた音楽
たちの壮大な二次創作でしかない。
出典を明らかにできないくらいに多様な、二次創作。
それが個人の創作の基本だと私も思う。
豊かな発想は、
豊かなインプットなしでは生まれないと思う。
そしてある日、急に思いつく。
それは昨晩も起きた、
昨日もいつものように
映画館でレイトショーを観ていた。
一本は「ドライブマイカー」
二本目は「ファンタスティックビースト3」
ドライブマイカーの話はここではあえて置いておく。
私はファンタスティックビーストの1も2も
観たことは一度も無かった。
ただ待ち時間なく観られそうだから観ただけ。
1も2も観たことはなかったけど
30分も観れば人物関係や、
これまでのストーリーなんてある程度わかるものだ。
そこで全く違う、
オリジナルストーリーを
作ってしまっていたとしても、
それはそれで、後の答え合わせが
まぁまぁ楽しい。
物語の途中、
魔道士の選挙があった、
そこの開会式をボーッと観ていたら、
今まで忘れていたあるチェロ弾きの二人組をポンっと思い出した。
この時突然思い出した曲はこれ
2GELLOS公式のYouTube動画
「これはチェロの音だ!」
と思うようなシーンでもなかったのに
それは突然やってきた。
そこからしばらく、妄想が
始まって、映画の情報をシャットアウトしていた。
その時の妄想もTwitterに
垂れ流しにツイートして残した。
私はTwitterは公開式のメモ帳だと思っている節がある。
公開式なので個人情報は入れやしないが、
頭の中の情報は結構垂れ流しにしている時もある。
これだって、
「芸大祭の生演奏」と、
「2CELLOSの楽曲」、
「ファンタスティックビースト3」、
そしてその他諸々
のインプットの末に
コピー機から出てきたような妄想だ。
ひらめきは天才たちの専売特許ではない
ひらめきはまるで神話みたいに扱われているけど、
そんな大層なものではないと思う。
個人の才能、無意識のパワー、神がかった偶然。
ひらめきはただの脳の出力パターンだと私も思う。
だって私は書きたい話は練って作らない。
練る時もあるんだけど、
そういう時は自分に伝えたいことが
あるとき。
ただ登場人物とその関係図が
ぱっと思いつく瞬間はある。
私は何の努力もしていない、
何もやっていない。見えただけ。
メモをしなければ彼らはどんどん消えていく。
だから、必死にメモをとりつかれたようにする。
その人たちが生まれたなら、
残してやるのが私にできる、
はかない彼らへの礼儀だと思う。
彼らに突き動かされて、
私という人間が彼らをコピーして外に出す。
私は彼らにとってのコピー機でしかない。
頭の中に完成図が浮かぶからこそ、
自分のスキルの足りなさが明白になる。
例えるなら、
カンニングを堂々とできるのに
自分の書いた文字が汚くて読み返せない感覚。
だから、尚、気持ちが悪い。
妖精のような儚さとトラックのような強さ
ポールマッカートニーが
夢の中で、イエスタデイの
短いコード進行が思いついて、
からその曲を完成させるまでの
二年間の長い道のりを私は今日まで知らなかった、
これを自分に例えるなら、
キャラも関係も思いついたのに、
構成がうまくいかない
だから長い時間がかかるってところだろう。
二人しか降ってこない。
「ときにはマッカートニー自身や、
友人たちの神経をすり減らすこともあった。」
これは物語に対して、
脳の処理速度が追いつかない感覚もあると思う。
だからマッカートニー自身も、もどかしさを感じる。
ビートルズの伝説では、
あたかも「イエスタデイ」の誕生がまるで突然の天才的ひらめきの
物語であるかのように語られている。
思いつきを実現させるには、
私は生半可な覚悟じゃいけないと思う。
彼らはすごく儚い。
私が出力をやめてしまえば、
それまでで終わる妖精のような存在。
でも、存在自体は妖精のようだけど、
私の思いを乗せるための
トラックのようなタフさも、
持ち合わせている。
「夢からレコーディングまでの道のりは決して一直線ではなかった。
「イエスタデイ」は純粋なひらめきの産物ではない。
気の遠くなるような必死の努力のたまものなのだ。」
私以外にとっては
しようのないただの妄想なんだけど、
私にとっては結構大事な二人なんだよな。
ひらめきはあっても、
それを信じられなきゃ、
何にもならない。
こういうことを言うと引かれるのも
わかってはいるんだけど、
このマッカートニーの以下の意見には賛同する。
「とてもスピリチュアルな見方をするなら、僕はただの媒体にすぎず、神がメロディを私に吹きこんでくれた、ということになるだろう。だが、もう少し皮肉な見方をするなら、僕は父親だけでなく、フレッド・アステアやガーシュウィンといった僕の好きな音楽家を通じて聴いてきた何百万年分もの曲を、僕自身のコンピューターにせっせと蓄えていた。そしてとうとうある朝、僕のコンピューターが抜群の旋律を自動的にプリントアウトしてくれたわけだ」
作り話でも何でもなくて、
私の身に起こってる本当のことなんだもん。
今日はカフェでケーキを
食べてきました。みたいな事実。
だから、これからはできそうな時
この二人のプリントアウトを
公開していこうと思う。
今日のnote終わり!!
いつも感想本当にありがとうございます!
まだまだ書きたいことはあるんだけど、
一旦キリのいい所まで書けたので
完成版を投稿してみた!!!
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