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魂が望むことをした人

旅館のお嬢様が音楽学校に上がることを反対されて諦めたあと、同い年の書生さんと駆け落ち同然に家を出て結婚した。それがわたしの祖母だ。


お隣からプラムをいただいた。庭の木になったのが熟れたから、と。
皮をむいて食べると手に甘酸っぱい香りが残る。そして、ふと祖母のことを思い出した。
祖母の家の庭には、果実がなる木がたくさんあって、わたしが初めてプラムという果物を食べたのも祖母の家だった。

生まれは明治末年。男女4人を生み育て、54歳で夫を亡くし、その後は未婚の娘とずっと二人暮らしだった。

貧しくはないけれど慎ましやかな生活だった。普段着は日常使いの着物で、買い物も娘に任せ、外出するといえばお墓参りくらいのもの。箱入り娘で育つと大人になってからも性格は変わらないのか、外界と隔絶されたようにして暮らしていた。

それでおもしろい人生だったのか?ぐらいにわたしは思っていたが、プラムを食べて思い出した。庭の草木を愛し、四季折々に季節の果実がなるのを楽しみにし、花や絵画などきれいなものに接すると「きれいだねえー」と顔をほころばせる祖母の顔を。余暇は織物と石の研磨だ。趣味人と言っていい。

認知症のまま帰らぬ人となった病室でも、花束を持っていくととても嬉しそうな表情になったという。
あとから知ったことだが、いつもかぶっている頭巾の額からのぞく前髪はおしゃれのための付け毛だった。
床の間にお琴があったり手まりがあったりで和風の人なのかと思っていたら、若い頃にクラシックギターを弾いている写真が出てきて驚いたこともある。音楽学校では歌曲を学びたかったのだとか。
美しいものが好きでハイカラなものが好きで、可憐な少女の気質を保ったままおばあちゃんになっていった人だったのかもしれない。

かなわなかった夢もあるだろう。意に染まないこともあっただろう。亡き夫についての恨み言を一度だけ聞いたことがある、とわたしの母が言っていた。

それでも季節の移ろいを感じ、昔ながらの暮らしのまま趣味に生き、発信するとか趣味仲間と交流するとかいったこともなく、静かに暮らしていた。
わたしも見よう見まねで手まりを自作してみたことがある。それで分かったことは、祖母の作った手まりはとても手が込んでいて、材料もとてもいい糸を使っているということ。やるとなると本格的にやる人なのだ。
買い物にも行かないくらい家にいる人だったが、何年に一度か、天然石を拾いに行く旅に出ていた。石の研磨の趣味のために素材を集める旅だ。そうした数少ない旅の思い出は、また何度も反芻して楽しむのだ。

毎日多くの刺激にさらされているわたしと比べたら、なんて穏やかな生活だっただろうと思う。

足るを知る、ということ。そして、魂が望むことをする、ということを両立していた人だったんだと思う。
それは、わたし自身が未来の不安を抱えて、心身を持て余し、ときに凶暴な自傷感情すら抱く若さの中にいてはわからないことだった。
それは喜びにあふれた生活だったのだろうということが、今なら理解できる気がする。

おばあちゃんはつまらない生活を送っていたのではなかった。暮らしを愛していたのだった。

わたしは、暮らしを愛しているだろうか。自分の身を包むこの時と場所を、自分の魂の望むように暮らしているだろうか。

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