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【小説】物語の少女、少女の物語

 その少女にとって、本を読むこと以外に生きがいというものはとんとなかった。
朝起きて本を取り、日が暮れるまで文字を読み、太陽が沈むとともに少女は眠りに落ちる。
少女はその生活に満足していたし、疑問も抱かなかった。
外の世界を知らずに生きてきた、といえば小説のようであるなと思ったことは幾度とあったが、少女は外を知っていながらにしてそれを拒んで生きてきた。
毎日部屋に運ばれてくる食料があれば十分に生きていくことができたし、扉の隙間にメモを挟んでおけば、その本は一週間もしないうちに届けられた。そんな生活に、少女は満足だった。

 ある日少女は夢を見た。
体が透明になり、何を食べても嚥下したそれは体に蓄積されずに地面に落ちていく。
命を燃やす糧になるはずだったそれは無惨に床でゴミとなる。
少女は何も食べることが出来ず、飲むことが出来ず、それでもひたすらに食物を口に運んで息継ぎのように咀嚼する。
次第に痩せ細り、痩せ細り、痩せ細り、息絶える。
そんな夢だった。

 少女は寝汗を覚えながら起きて、それが夢であったことに気づく。喉を、胸を、腹を触り、ああ夢で良かったと息を吐いた。
なぜこのような夢を見たのだろうか。少女はそう思い夢占いを題材にした小説を開く。しかしそこに答えなどはなかった。少女自身がそんなものを信じてなどいなかったのだ。
書いてある文字に変わりはないが、少女にとってそれは無意味な文字の羅列にすぎなかった。
 コツコツとノックされ、扉の外には新しい朝食が置かれる。その運び手の気配が去るのを確認した少女は扉を開け、そこに置かれたプレートを素早く部屋に引き込む。毎朝やっていること。何百回も繰り返したこと。その動作に無駄はなかった。
いつもの決まったメニュー。
少女にとってはこれで十分だったし、他のものを食べたいと思うことすらなかった。

 窓際のテーブルに朝食のプレートを置く。外は雨だった。
少女は雨が好きだった。ざーっというノイズが無駄な思考をかき消してくれるような気がしたから。
昨晩読みかけていた本を枕元から引き寄せ、栞を抜いてその続きを開く。

 ピカッと、遠くで雷が光った。

 一瞬驚いたが、すぐ本に目を落とす。二、三度とこすった。もう一度そこにあるはずの文字に目をやる。

 「よめ、ない……」
 確かに文字はある。昨日までと何が違うのか、少女にはわからない。
その文字列たちはたしかに少女の瞳を通すが、脳に入らずに溢れていく。
本を置き、びっしりと規則正しく背表紙が並べられた本棚に向かう。一冊抜き出しても、それは同じことだった。また一冊、また一冊。

 少女が文字を読めなくなったと理解するまでに、そう時間はかからなかった。本は変わらずそこにあったが、少女にとってそれは既にただの羅列で、意味を成すものは一冊として存在しなかった。
今朝に広げた夢占いの小説さえ広げてみた。そこで少女は気づいた。答えがなかったのではない。文字を認識出来なかったのだ。
必死に文字をかき集めてもそれは無意味だった。

 それから少女は本を開かなくなった。本を開くことは、唯一の生きる意味を失った現実を見つめることだったから。
脳が働かないわけではなく文字が溢れてしまうのだから、考えることは出来た。だから少女は頭の中で物語を紡いだ。
窓から見える星空。時折顔を覗かせる小鳥や虫たち。そんなものを眺めながら、ああ彼らは今からどんな物語を歩むのだろうかと、少女は考えた。

 それはとてつもなく長い物語になった。書き留めようかとも思ったが、どうせ読み返すこともしないのだと諦めた。本に印刷された文字とは違い、過ぎ去っては二度と戻らぬ物語。それはそれで良いのだと、少女はひとりごつ。
次第に少女は食べなくなった。飲まなくなった。息をすることも忘れた。頭の中に紡いだ物語がいよいよそれから溢れ出し、体中が文字となった。

 彼女は文字になった。物語を紡ぐ本となった。

 彼女は肉体から解き放たれ、時間を超えて存在した。彼女は悩むもの、喜ぶもの、怒るもの、様々な人にそれを語りかけた。
彼女は初めて、誰かの生きる意味になった。

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