運命ではない
食べたいもの、行きたい場所、見ておきたいもの、会いたい人、この4ヶ月夫はすべて叶えてくれた。
わたしたちは20歳になる前に出会い、それから1週間で付き合い、1ヶ月後には同棲し、2年後に結婚し、先日結婚21年を迎えた。
わたしたちは、夫であり妻であり、一番仲の良い友達でもある。毎日のように2人で晩酌した。お酒と美味しいもののためにいろんな場所にも行った。わたしたちは、長い時間を一緒に過ごしてきた。
こう書くときれいすぎて、しっくりこない。色々考えてみてもどんな言葉もしっくりこない。
2週間前に摘出した腫瘍の検査結果が出た。
浸潤性小葉癌。ここで病名がはっきりした。乳癌のなかで殆どを占めるのが乳管癌。小葉癌は、乳管癌と違ってしこりを作らない。境界線なくもやもや広がっていくらしい。わたしの小さな右胸全体が癌の集まりだった。
リンパ節は13個採ったうちの11個に癌が転移していた。
そこまでの転移があると血液にまわっている可能性が高く、症状がでていないだけで他の臓器に転移している可能性もなくはない。
わたしは癌について知識がなかったのだが、癌というのはステージ4までしかない。ステージ3と4の違いはわかりやすい。他の臓器に転移しているかしていないか。
だからわたしは一応ステージ3だ。
血液に流れ出した癌細胞に対抗するには抗癌剤をするしかない。
これも知らなかったが、再発や他の臓器に転移した時点で他の臓器も癌に冒されている可能性が高いので外科的治療をしても追いかけっこになってしまい、治療の選択肢が極端に狭まる。
そして転移するごとに癌細胞はパワーアップしていくらしい。
やはり入院中主治医が言っていた通り、抗癌剤、放射線治療、分子標的薬2年、ホルモン剤10年を提案された。抗癌剤を強制することはできないが、絶対にして欲しい。転移・再発させないようにするのが乳腺科医のしごとだから、と言われた。
入院中に抗癌剤やりたくないと伝えたことと、わたしの癌は抗癌剤が劇的に効くわけではないので、抗癌剤は最低限のものだけの提案だった。
なんとなく、次までにどうするか考えて、という感じかな、と思っていたのだが、その余裕は与えられなかった。(とはいえ、決めるのはわたしなので、時間をくれといえばまわりも待つしかないが)
ネットの知識を鵜呑みにしても仕方ないが、リンパ節の転移数10個以上の人の5年生存率は50%、10年だと25%と書いてあった。
それを見た時思ったことは、一応きちんと終活をしないとな、ということだった。
終わりがわかってるのは結構楽なものだ。生きるかもしれないし、死んでるかもしれない。元気かもしれないし、生きてはいるけど虫の息かもしれない。
でもあらかじめ終活しておけるのは悪いことではない。
わたしは父を不慮の事故で亡くしているので、ある程度は整理をつけて死ねた方が良いのではと思っている。
去年、まだ病気に気付きもしなかった頃、夫と2人で遺書を書いた。
夫は家庭が複雑なので予め法務局に預けておけばトラブルを防ぐことができるというだけの理由で。
遺言書のテンプレートはシンプルだ。私は財産を夫に相続させる。などと書き、自分の通帳などのコピーを添付する。法務局がその遺言書を保管する際に見えなくならないように、綴じる部分の余白の幅も決まっている。
わたしたちの遺言書は今、法務局で左側を綴じられて多分他の大多数の人たちの遺言書とともに纏められて保管されているのだろう。
手術前に大体のことを叶えてもらったし、遺言書は書いた。もうそんなにやりたいことや食べたいものも無い。欲しいものも特にない。
かといって死にたいわけでもなく、でも執着もなく、普通にテレビを見て笑ったり、オリンピックを見て感動したりもするが、自分の境遇に酔って泣くことはない。病気になったからといって良い人になったわけでもなく、夫に暴言を吐いたりもする。
無くなった胸に詰め物をしないで家の中を彷徨き(さすがに傷はまだ見せられない)、夫にわざと抗癌剤で抜けた髪を見せる。
すると夫は少し目が潤む。そしてひとり耐えている。わたしは残酷な人間なので、その顔を見るのが結構好きで、わざと傷付けてしまったりする。
夫と病気前みたいに晩酌したい。
普通に暮らしたい。
大きい目標はなにもない。何も欲しくない。
わたしが生きたい理由は少ない。こんな些細なことしかない。
病気になる前だって幾度も辛いことがあった。
病気になったから、それが思ったより深刻だったから、より強い辛さに掻き消される。だから、綺麗事は言いたくない。
病気前のわたしたちの方が幸せで、今の方が不幸せだ、とは全く思わない。
現実はずっと地続きだ。小説みたいに場面転換したりしない。
この現実に終わりが来たとして、その後の夫の晩酌が辛いものにならなければ良いな。1人でも他の人とでも普通に楽しくお酒を飲んで欲しい。美味しいものをちゃんと美味しいと感じて欲しい。
すこしだけ、わたしたちについて、わたしが夫を思う気持ちについて、正確に書けたかもしれない。
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