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海に辿りつけなかった日の記録



4月のある夜、小雨の降るなか、傘を持たずにホテルの部屋を飛び出した。

発作的だったので靴下を履かずスニーカーを素足で履き、テーブルの上にあったストロングゼロのロング缶を鞄に突っ込んで、部屋の鍵を置いたままとりあえず外に出た。

22時前くらいだったと思う。

高速道路の下の道をとにかくまっすぐ進んだ。

ある程度まっすぐ進んで、その後海の方へ行きたくなり左へ折れて住宅街を抜けていった。歩いている人は誰もいなかった。

元来方向音痴な私だが、何度も訪れている街だったので、なんとなく海の方向には見当が付いていた。とはいえ、かなりの距離だ。

駅まで辿りつき、トイレに入った。駅を超えて少し行けば海。それは知っていたが、なぜか商店街を通りたくなり、気付くと正反対の方向へ歩いていた。

ただ前に進むだけの無で歩いていて、意識を取り戻したとき、私は山への道を進んでいた。街灯もほとんどない。車も走っていない。人もいない。住宅街の明かりも消えている。

我に返って、コンビニの明かりを探して歩いた。

深夜すぎの真っ暗な中に光るコンビニは少し異様だったが、小雨の中傘もささずいた私の方が異様だっただろう。お腹が空いて、おにぎりとカマンベールチーズのハーフとお茶を買い、コンビニの外のベンチで食べた。

その時点で3時間以上は休みなしで歩いていたはずだ。コンビニ以外の明かりのない、誰もいない、広い駐車場の前のベンチ。今自分がどこにいるか見当もつかないし、これからどこへ行ったらいいかもわからないくせに、のんきにカマンベールチーズを齧っている。

けっこう、人って自由なんだ、行こうと思えば行ったっていいんだ、目的がなくても、ふらふら出歩いたっていいんだ、とぼんやり思っていた。

やっぱり海に行こう。立ち上がり、元来た道を戻る。お腹が満たされたせいか、感情が戻ってきた。涙が止まらなくなったが、誰もいないので問題なかった。

雨の中泣きながらどんどん前に歩いていくのは結構気持ちよかった。誰も見ていないから、顔を隠す必要もないし、我慢せず正々堂々と泣けるのだ。


私がここに来た理由は会いたい人がいるからだった。20年来通っているお店。家から車で4時間かかる。飛行機で通っていたこともある。その人に会いたい、というか、その人の料理が好きで、空間も好き。すべてにおいて完璧な時間を過ごすことができるお店だった。

コロナのために2年行かなかった間に、その人は亡くなっていた。

もう、あの料理を食べることはできない。その事実を受け入れることができなくて、私はホテルの部屋を飛び出したのだ。

そんなことをしたからといって、何にもならないが、とにかく歩きたかった。一秒も止まっていたくなかった。体を動かして、脳を止めたかった。


海。海があるということは川もある。

川沿いまで来た頃には涙も終了し真っ暗な川を海を目指して下っていく。魚が跳ねる音が怖い。貨物列車の走る音が怖い。もう時間は3時を過ぎていた。雨はひどくなかったが、長時間小雨の中歩いていたせいで、寒い、怖いという感情が戻ってきていた。

海に近づく。風が強い。寒い。足が痛みだした。痛いという感情も戻ってきた。

漁港は完全に管理されており、なかなか海に出られる場所がなかった。観光地ではないので砂浜などないのは知っていた。

海に近づくほど、どんどん暗くなっていく。すぐそこに深淵が広がっているが何も見えない。山へ向かっていたときとは全く違う、深い暗闇。雨が混じる冷たい風。何時間もとにかく前へ進んでいた私だが、前に進むのが怖くなった。足が痛くて、引き摺りながら歩く。怖い。痛い。寒い。

心の痛みだけが私の中にあったとき、何も怖くなかった。自分がどこを歩いていようが、どこに行こうが、どうなろうが、どうでもよかった。それなのに、身体の痛みが伴うと心の痛みが戻ってきてしまった。体も心も痛くて、恐ろしくて前に進むのが辛くなった。

私は海に辿りつくことができなかった。


辛いことがあったとき、人に頼ることができない私の、体を痛めつけることによって心の傷を軽減させるやり方の記録。体を痛めつけるといっても、手首を切ったりすることは絶対ない(結局人に頼ることになる為)。誰かに話を聞いてもらったり誰かの前で泣いたりできないから、ひとりになる時間が必要だったのだと思う。

そして、私の中で「美味しいものが食べられない」ということがどんなに辛いことか。

個人的につながっていなくても美味しいものを作ってくれてそれを私が美味しいと感じるとき、その人は私にとって重要な人になる。美味しいものを作る人は私にとって神に近い。


結局20kくらい彷徨っていたようだった。靴を脱いだら両足血まみれで、10日くらいはまともに歩くことができなかった。

でもその痛みに集中することにより辛さを薄めることができた。

身体が回復することによって、心も回復できたと錯覚することができる。

それとは裏腹に心の回復など望まないのに、身体が回復していくことがあの時の私の感情に対する裏切りな気がして、まだ傷つけ足りない気持ちになる。

そんなふうに葛藤しながら、自分と折り合いを付けていくのが私なのだ。










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