中平卓馬 火―氾濫(東京国立近代美術館、2024年)

その名を聞いて真っ先に思い出すのは『カメラになった男ー写真家 中平卓馬』(小原真史、2003)で猫のように鷹揚かつ俊敏に動きまわる姿とショートホープの空き箱に神経症的なほど細密に刻まれた朱字が織りなす対照である。にもかかわらず対象から瞬間を切り取る写真家が記憶障害ゆえに事物を持続ではなく断片のうちに捉えるという今どき青年漫画でも実践せぬほど象徴的なエピソードも抱えているというのだから、この人を矛盾の人といわずしてなんといえるだろうか。
キャプションでも触れられていたが、病とこの人を切り離すのはやはり適切ではなく、体系的に見る限り、むしろ写真一点いってんの内側にどうしようもなく撮影者の残滓が入り込んでしまっているような印象を受けた。たとえば増村保造が日本映画に近代的主体性を持ったキャラクターを登場させたといった方法論的な意味ではなく、意識せずにぬるりと存在してしまっているものーー霊ーーという意味である。
食えない人には違いないのだが、ただ、70年代に入るやいなや沖縄に行ってしまうその俗っぽさにはじめて親近感を覚えた。その方向にどんな中平がいただろうか。

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