見出し画像

日記(2021/05/06〜05/12)

2021/05/06(木)

男性の、去勢コンプレックスへの対抗について考えた。以下のようなことが起きたとすると、どうなるのだろうか。

「(去勢コンプレックスへの対抗のためにフェティシズムに陥るのではなく、)女性はペニスとは”別バージョン”の統制機構としてクリトリスを持っている」ということを男性が認識した例として、最近のものでは『シン・エヴァンゲリオン』が挙げられるだろう。

「シン・エヴァはものすごくわかりやすい作りになっているから批評性はない」的なことを、ゼロ年代の(あるいはゼロ年代を引きずりすぎている)批評家たちは語っているが、それはどうなのだろうか。



2021/05/07(金)

「(数学・理論物理学的)特異点」に関する軽い解説と、それに関する問題提起をここで書こうとしたのだが、めんどくさくなってやめた。

まあこれは、今までの日記で書いてきたようなことを、(理論)物理学的な視点からみるとどうなるのか?ということについて考えた…ということですね。理論物理学をやってる私の友人、音信不通なので誰か紹介してもらいたいものです。



2021/05/08(土)

記号と事件』では、「制御社会」が議論される。制御社会においては主体化が行われず、個人はその時々の情勢に応じて刻一刻と変貌を繰り返す「転調」の終わりなき連続の中に巻き込まれる。

この「転調」に適応できなければ、その人は病んでしまうであろうはずなのに、筋トレをしている人はすこぶる元気そうである。これはやはり例の「テストステロン」というやつが全てをかき消してしまうからなのだろうか。

それとも、「転調」への対処の仕方が、筋肉の場合は画一化されている(もし、筋トレ方法が多様性に満ちているのなら謝ります)から、悩まずに済む、ということなのだろうか。



2021/05/09(日)

この日は、とある理系大学院生と議論。その結果として、以下のツイートをした。

読み返してみると、割とアツい話だ。

画像1

今でも理系の人と話すときには、上記のような「これは不遜だ」という思い「これこそ対話だ」という思いの板挟みに苦悩してしまうわけだが、このような岡本太郎的な対極主義による引き裂かれの状態で、もがき続けることの先にこそ、〈他者〉との交流communicationがあるのだ。

私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相克する。「反」の内にまた闘争する「正」がゆるぎなくある。その矛盾した両極がたがいに強烈に挑みあい、反撥する。人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。ヘーゲルのように理論を前提としたのではなく、この永遠の矛盾に引き裂かれてあることの方がはるかに現実的な弁証法。弁証法は正・反・合の歴史的時間ではない。対極は、瞬間だ。だから私は「合」を拒否する。現在の瞬間、瞬間に、血だらけになって対極のなかに引き裂かれてあることが絶対なのだ。(岡本太郎『呪術誕生』、 東京:みすず書房、1998年、135-136頁。)



2021/05/10(月)

コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)のデザイナーである川久保玲は2018-19年秋冬のショーでコレクションの着想源を挙げたのだが(これはコム デ ギャルソンとしては珍しいことらしい)、それこそがスーザン・ソンタグ(Susan Sontag)が1964年に発表したエッセイ「キャンプについてのノート」だった。

私ってものすごくチャラくて、ひとつのコンテンツに対する徹底した信仰なしに、別々のコンテンツどうしを勝手に交配させてしまうクセがあるけれども(反省はしています)、それはそれでいいのかなぁと開き直った。

この延長線上にはきっと、インテリ達がこぞって”悪”として批判する、中田敦彦のYoutube大学(的なコンテンツ)を、「学ぶ欲望の涵養」という点で評価する…ということがあるのだろう。つくづく、インテリの批判はズレていると感じる。



2021/05/11(火)

を、読んだ。で、以下をツイートした。

おそらく、この予想は当たるでしょう。



2021/05/12(水)

最近、「歯学部出身」の友達が初めてできたのだが、本当にこれ👆を痛感した。



———————————————————

今週の日記のハズレ回感がすごい。本当は公開したくない週だった。

ですから、今回は特に告知もせず、ひっそりと公開します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?