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日記(2021/05/06〜05/12)
2021/05/06(木)
男性の、去勢コンプレックスへの対抗について考えた。以下のようなことが起きたとすると、どうなるのだろうか。
女性にペニスがないという認識から、自分のペニスも父親に切り取られるかもしれないという去勢コンプレックスに対抗するために、男性は①父親に成り代わる、②女性はペニスを切り取られているのではなく別の代理物があると思い込む=フェティシズムという二つの方法でその恐怖を乗り越えるが、
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 18, 2021
もしこの②の段階で、ペニスの代理物として足や靴や下着類がフェティシズムの対象になるのではなく、ペニスの"別バージョン"としてクリトリスが認識された場合、何が起こるのだろう。②の方法による去勢恐怖の乗り越えは、女性性器の軽蔑を副産物として引き起こすが、それがなくなるというだけでなく、
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 18, 2021
もっと何かポジティブな影響(もちろんネガティブなものもあるだろうけど)がありそうだ。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 18, 2021
「(去勢コンプレックスへの対抗のためにフェティシズムに陥るのではなく、)女性はペニスとは”別バージョン”の統制機構としてクリトリスを持っている」ということを男性が認識した例として、最近のものでは『シン・エヴァンゲリオン』が挙げられるだろう。
これが『エヴァンゲリオン』ということか。父親が法によって世界を正常化させる役割を担わないため、ファルス的母親が誕生(肥大化したクリトリスとしてのエヴァ)。その母親に飲み込まれる危険性に晒されながら、母親(謎に振り回される)との離別を父親に頼らずに成し遂げていく物語。 https://t.co/hT1OLt5epA
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 21, 2021
『シン』が示唆的なのは、世界の正常化に際して父親的な役割は機能せず、母の諦めとしての恋人でも、母の代理でもない(代理の可能性は捨て切れないが)、「ヘンな、ナゾの同伴者」であるマリが世界を正常化させる点。これはなに。これの解明ができれば、〈父〉のいない現代の諸問題の解決の鍵になる?
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 21, 2021
「シン・エヴァはものすごくわかりやすい作りになっているから批評性はない」的なことを、ゼロ年代の(あるいはゼロ年代を引きずりすぎている)批評家たちは語っているが、それはどうなのだろうか。
2021/05/07(金)
(数学・理論物理学的)特異点は、遍在するという特徴を持ち、その遍在性こそが、見えないはずの「特異点」の観察を可能にする(「ただ一つ」で存在する特異点は観測できない)わけだが、これは、いわゆる「シニフィアン」がそれ自体で存在できないということとは別の何かを示しているような気がする。 https://t.co/tYCiIoqHZI
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 7, 2021
最近、理論物理学上で定義されているブラックホールの「特異点+その境界面」という構造に対しての疑い(その構造の定義は間違っているのでは?という不遜)から、この分野に関して色々と調査しているのだが、そもそも自分の分野外なので欲しい情報にアクセスできないでいる。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 7, 2021
「(数学・理論物理学的)特異点」に関する軽い解説と、それに関する問題提起をここで書こうとしたのだが、めんどくさくなってやめた。
まあこれは、今までの日記で書いてきたようなことを、(理論)物理学的な視点からみるとどうなるのか?ということについて考えた…ということですね。理論物理学をやってる私の友人、音信不通なので誰か紹介してもらいたいものです。
2021/05/08(土)
筋トレでは、自分の身体の限界を知っても、回復後にその限界を超えていこうとする。筋肉を壊しては次へ壊しては次へ。終わりがない。それはとりもなおさず刻一刻と変化し続ける自分の身体をセルフマネジメントし続けることのできるような主体を求めるということでもあるわけだが、それってどうなん?
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 16, 2021
つまり、筋肉に対するマネジメントは、(いわゆるドゥルーズの「制御社会」の要請するマネジメントのように)決して安定状態(筋トレの終わり)に至ることがないわけだが、なぜそれに対する不適応に悩む人が現れないのだろうか。テストステロンが全てをかき消してしまうのか?
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 16, 2021
※「筋肉は常にマネジメントしないと筋肉量が減ってしまうから、筋トレに終わりがない」という話も最初に追加で。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 16, 2021
『記号と事件』では、「制御社会」が議論される。制御社会においては主体化が行われず、個人はその時々の情勢に応じて刻一刻と変貌を繰り返す「転調」の終わりなき連続の中に巻き込まれる。
この「転調」に適応できなければ、その人は病んでしまうであろうはずなのに、筋トレをしている人はすこぶる元気そうである。これはやはり例の「テストステロン」というやつが全てをかき消してしまうからなのだろうか。
それとも、「転調」への対処の仕方が、筋肉の場合は画一化されている(もし、筋トレ方法が多様性に満ちているのなら謝ります)から、悩まずに済む、ということなのだろうか。
2021/05/09(日)
この日は、とある理系大学院生と議論。その結果として、以下のツイートをした。
理系の人にどんな話を振られても、抽象化してしまえばいくらでも話せるわけだが、相手の方はそういった概念知は必要としていない風なので、いつも「お、おう」みたいな感じになる。彼らは、例えば『大学への数学』を解いていて気持ちいい、みたいなゲーム自体の快楽の追求しかしていないので。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
などと、批判的に指摘しようとも、向こうの真理は「人間の外部」にあるから、我々の話は「あっそ」と棄却してくる。コミュニケーションなしで純粋数学していればいいから。その「あっそ」で毎回話が終わってしまうわけだが、これ以上の干渉は野暮なのか、それともこれこそが文理の対話につながるのか。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
純粋数学"自体"を壊した、刀根とかパイクとかの仕事は、彼らには永遠に理解されることはない(ポパーの名すら知らない)。これを人文的なコミュニケーションの力によって気づかせる、というのは「野暮」や「不遜」なのか、それとも、それこそが重要な行為なのか。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
とりあえず、どんな時にでも対応できるように、理系科目も(概念知として)全てやっとく(三省堂書店神田神保町本店で言えば、4階までしか上がらないやつは人文系として終わってる。5階までをも制覇しなければならない)というのが現段階での暫定的な解だ。というか、全てやらなければならない。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
理系の人に対し、彼らの領域を拡張する形で概念知をぶつけようとする(「それってつまり〇〇じゃん?ってことは××が問題・重要じゃね?」という、ある種の比喩化、外在的意見による視野の拡張?)のだが、毎回、「そんなの不遜だぞ」という自分と「これこそ対話だ」という自分の板挟みになってしまう。 https://t.co/QoFBuVGTvS
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
まず、これまでの人生経験上、向こうから歩み寄ってくることは絶対にない。すなわち、「1989年」以降を生きてる人文側の人間として、この態度(全ての分野をやる、やった上でコミュニケーションをとる)を忘れないことは宿命なのだ。やるしかない。この地道な活動の先に人文知の権威の回復があるのだ。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 9, 2021
読み返してみると、割とアツい話だ。
今でも理系の人と話すときには、上記のような「これは不遜だ」という思いと「これこそ対話だ」という思いの板挟みに苦悩してしまうわけだが、このような岡本太郎的な対極主義による引き裂かれの状態で、もがき続けることの先にこそ、〈他者〉との交流communicationがあるのだ。
私自身の生命的実感として、いま、なまなましく引き裂かれながら生きている。「正」の内にまた相対立する「反」が共存しており、激しく相克する。「反」の内にまた闘争する「正」がゆるぎなくある。その矛盾した両極がたがいに強烈に挑みあい、反撥する。人間存在はこの引き裂かれたままの運命を背負っている。ヘーゲルのように理論を前提としたのではなく、この永遠の矛盾に引き裂かれてあることの方がはるかに現実的な弁証法。弁証法は正・反・合の歴史的時間ではない。対極は、瞬間だ。だから私は「合」を拒否する。現在の瞬間、瞬間に、血だらけになって対極のなかに引き裂かれてあることが絶対なのだ。(岡本太郎『呪術誕生』、 東京:みすず書房、1998年、135-136頁。)
2021/05/10(月)
川久保玲がソンタグについて語っているのを聞いて、それをきっかけにこの世界に入りました、みたいな人がいた。チャラいのはつくづく大事だと思った。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 10, 2021
コム デ ギャルソン(COMME DES GARCONS)のデザイナーである川久保玲は2018-19年秋冬のショーでコレクションの着想源を挙げたのだが(これはコム デ ギャルソンとしては珍しいことらしい)、それこそがスーザン・ソンタグ(Susan Sontag)が1964年に発表したエッセイ「キャンプについてのノート」だった。
私ってものすごくチャラくて、ひとつのコンテンツに対する徹底した信仰なしに、別々のコンテンツどうしを勝手に交配させてしまうクセがあるけれども(反省はしています)、それはそれでいいのかなぁと開き直った。
この延長線上にはきっと、インテリ達がこぞって”悪”として批判する、中田敦彦のYoutube大学(的なコンテンツ)を、「学ぶ欲望の涵養」という点で評価する…ということがあるのだろう。つくづく、インテリの批判はズレていると感じる。
2021/05/11(火)
を、読んだ。で、以下をツイートした。
ウルトラマンも仮面ライダーも変身するわけだが、各シンで私が期待するのは、その「変身」という(斎藤環が言うところの)「加速した成熟化のメタファー」が明瞭化され、時間いっぱいかけて現実的に行われること。或いはシンエヴァのように成熟/未成熟の対立から逃れるクイアな主体を立ち上げること。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 11, 2021
おそらく、この予想は当たるでしょう。
2021/05/12(水)
最近、歯学部の友人ができたのだが、そこで浮上したのは、自分は「歯」について何も語れない、何も教養がないということ、大学が「歯」のどういう問題に取り組んでいるのか全く知らないということだった。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) May 12, 2021
最近、「歯学部出身」の友達が初めてできたのだが、本当にこれ👆を痛感した。
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今週の日記のハズレ回感がすごい。本当は公開したくない週だった。
ですから、今回は特に告知もせず、ひっそりと公開します。
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