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日記(2021/04/01~04/07)
2021/04/01(木)
19:30。テニスをした。近くのテニススクールにて。
実は、私B.G.V.、小学生から今現在までテニスを続けている。一体どうしてなのかは分からないが。なぜか今でも続いている。
なんでだろう? 正直言って、楽しくはないのに。
そういえば、オーストリアの精神科医であるジークムント・フロイトの趣味も、テニスであったらしい。そんな彼はテニスコートを「人間存在の科学的調査を試みる最も適切な場所」としていたし、「患者を理解する唯一の道は、彼らとテニスをすることだ」とも言っていた(出典はまた後日、追記する)。
フロイトと自分を重ねるなんて不遜だが、彼の言っていることはよくわかる気がする。私はどこか、ある種の「臨床」としてテニスをしている。
ヨーロッパの貴族社会での遊戯が発祥とされるテニスは、装飾的でファッショナブルな要因がまとわりついている。身体の運動と勝敗という要素は最初から欠落していた。他者の視線を意識しながらブランドを誇示し、パフォーマンスを行い、遊戯を楽しむことがテニスに他ならない。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) November 25, 2020
テニスというパフォーマンスは、自我をテニスコートという名の定点に結びつけ、自らの位置関係を可視的にし、それを他者の「視線」によって確認するメディアに他ならない。 https://t.co/SGwDDMTJG3
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) January 17, 2021
2021/04/02(金)
ラース・フォン・トリアーってなんだろう?っていうのを考えた。
また、以下のツイートをした(ラース・フォン・トリアーは何も関係がない)。
「人はなぜ寝る時に布団を被るのか?」という問いに対し、「生き続けるため」と答えられるだろうか。「寝る」とは、仮死状態(個を消失させ、他者と溶解する)に入ることだ。一方で「布団を被る」とは、そのような死(自己と他者の未分化状態)への抵抗として捉えることができるのではないかと思った。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 2, 2021
自己と他者が未分化状態であることから発生してしまう「妄想的転移状態」に対して、精神分析の臨床では何らかの肌への刺激(具体的には患者の手に触れる等)によってその未分化状態を分化させることができるとされる。このように、寝ている間も生き続けるために布団(としての皮膚への刺激)がある?
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 2, 2021
「睡眠」は、他者と溶解して死にゆくような感じもあるが、一方でこのツイートのように、布団という”他者のようなもの”を自分の戦友?にして、死に対する抵抗をしているようにも思える。皆さんはどっちだと思いますか?
2021/04/03(土)
昨年の今頃(2020年3月ごろ)に、主にTwitter上で問題?になった、若手ドゥルーズ研究者による、ラディカルなふりをした権威主義(”読書感想文”問題)について考えた。
最近何かと話題になる、というか続出する、「反体制」を謳いながら実は権威にすがっているという人たち。この人たちはなんなのか。また、どこからやってくるのか。
特に結論は出ず。
2021/04/04(日)
知り合いと食事。
私は「お酒について全く詳しくない」というコンプレックスがあるのだが、いつも「若いからしょうがなくね?」という開き直りで乗り切ってしまっている。
果たしてこれはいつまで通用するのだろう。
2021/04/05(月)
千葉雅也さんの『メイキングオブ勉強の哲学』における占い論、現代ラカン派の自閉症論における「分身=想像的他者」(自閉症者自らが自身をサポートする目的で生み出す"他者のようなもの")という概念を「制作としての占い」として捉えることで、ラカン理論を実践へと導いた画期的な論考だ…。敬服。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 5, 2021
現代ラカン派の実践の可能性を提示しているのは勿論のこと、これまでの占い研究(文化人類学者・板橋作美などの占い論)のさらに先を行ってるし、あるいはこれを基にした小説論(e.g.後藤明生本人と小説自体との関係性)をも考えることができそうだ。とにかくすごい。
— B.G.V. (@Bou_gain_villea) April 5, 2021
千葉雅也著『メイキング・オブ・勉強の哲学』、後藤明生の『挟み撃ち』を再読。
本人にもこの感想ツイートが届いたらしく、反応が来て嬉しかった。
また、この理論?を使った、”妖しい版の”メンタリストDaiGoなるものについて考えた。
2021/04/06(火)
「パフォーマンス」という手垢にまみれた言葉を、何か別の言葉で言い表せられないだろうか、ということを考えた。ということで、まずは「パフォーマンス」という言葉をよく分析して見ることに。
…うーむ。「パフォーマンス」という言葉、「よくできてる」な。
まず「パ」という破裂音=半濁音で、ある空間に突如押し入り、
なんらかの錯乱行為をしたのちに、潔く「ス」という音(サ行)で去っていく。
パフォーマンスという行為の「パフォーマンスみ」を、その言葉自体がそのまま体現しているではないか。
これを踏襲して、「半濁音+サ行」で色々考えたが、良いのは思い付かず。
2021/04/07(水)
仕事?を終え、コメダ珈琲へ。 ナプキンに穴を開ける。
さて、突然すぎるが、穴は、穴それ自体で存在しうるものなのだろうか? 穴の隣には、ある種の盛り上がりのような目印が必ずある…と言えないだろうか? つまり、ブラックホールはブラックホール単体で存在し得るのか? ブラックホールの隣には、ブラックホールがあるということを示す実体的な目印があるのではないか?
よく日本は、「外部」を持たず「内部」しかない、脱構築を準備する構造=構築を根本的に欠いていると言われてきた。そのような日本のブラックホール性(椹木野衣の言葉を借りれば、歴史も思想もない”悪い場所”)ってほんとうに妥当なのだろうか?
ブラックホールだけが、それ単体としてただ在るのが日本なのか?
その”隣に”何かあるのでは? 例えば膣口の隣にクリトリスがあるように(正確には尿道だが)。
(クリトリスの語源はギリシャ語の「κλείς クレイス」というらしい。川原拓雄(1992)による『現代ギリシア語辞典』で「κλείς クレイス」を引くと、「κλείς:1鍵, キー. 2物を開ける道具. 3(問題などを)解く鍵, 手掛かり」とある)
これまでの日本論は、「穴」自体しか見てこなかったのではないか?
付随物?付録?目印?を見てこなかったのではないか?
・・・
新たな(?)日本論を展開するために、そのようなことを考えた。
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今週も、大したことは書けなかった。去勢としての日記。
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