髪とともに 去りぬ。

本当に、どうして髪の毛にこんなにも左右され、一喜一憂をする日々を過ごしているのだろう。ここ数ヶ月、ずっとそうだ。ウクライナでどんなに悲惨なことが起きていても、自分にとっては半径数メートルのことだけが究極的には関心事なわけで、「薄くなったかな」「M字部分が深くなったかな」と、スマホで撮影しては、喜んだり、ため息をついたりしている。(スマホで確認している人あるあるだと思うけど、ちょっと角度とか照明が違うだけで、全然見え方違うのよね。)

髪なんて、別にあってもなくても、生きていく上では支障はない。などとよく言う。確かに一面ではそうだ。ただ、その「生きる」というのは、生命活動としての「生きる」である。心臓は動き続けますよ、の「生きる」である。

しかし「生きる」には別の「生きる」がある。なんと言えば良いか、ただ生命として生きているのではなくて、自尊心やプライドが満たされ、「あぁ生きててよかった」と感じる「生きる」だ。

私。男、齢30ちょっと。

つまり、これからまだ恋愛や結婚などを控えているし、社会人として働いているのだから人様の目もある中で、「どう見られるか」。どうせなら、カッコよく、少しでもまともに、素敵に見られたい。

もし、今私が薄毛やハゲになったら、前述の後者の意味の「生きる」のレベルが大幅に低下するだろう。見てくれは誰がなんと言おうと大幅に低下する。恋愛のできる可能性も大幅に低下する。この年齢で、女性に「認められない」自分になるということが、どれほど「生きる」を低下させることか。

同じ年頃の男性ならきっとわかるはずだ。

今朝もそんな気持ちで、また生え際の写真を撮って、じっと眺めていた。「なんか以前より薄い気がする」。またこのループだ。案の定、一日中悩んでしまい、某AGAクリニックの無料相談メールに送ってみたら、「間違いなくAGAでしょうね」と返答。

「やっぱりか」「もう生きているのが嫌になった。自殺してしまいたい」と、スマホを壁にぶつけんばかりに放り投げ、また布団を被って寝てしまった。起きたら午後2時。1日を、またこんなふうに無駄にしてしまった。それでも、髪のことが気になって仕方ない。

髪ごときで、いや、その髪が大事なんだ。 けど、いつまでこのことばかり振り回されているんだ、いい加減脱却しないと…という自分が、心の中で喧嘩しており、本当に最近心が落ち着かない。イライラする。

どうせなら、髪とともに去りぬ、となりたい。


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