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自分の性分は、根明的だと思っている。しかしポジティブシンキングというよりも、それは落胆する時間が勿体ないし、故に楽観的に捉えるようにすることが多いということだ。決して物事を否定的に見ることが少ないという意味ではない。ただその否定的な見解を引っ張るということは無いに等しいことである。

否定的な意見を並び立てるよりも、未来への楽観視の傾向が強いとも言える。何か不都合なことが、唐突に生じても、何とかなるの精神で乗り切るのが基本スタイルだ。そしてマイナスの予測は立てることをしない。リスクヘッジを取らないという意味ではないが、根拠のない不安に囚われるという事がないように意識掛けしているということである。やってみないと結果は分からないという気持ちが働くことも多い。

しかして私は、だが内向的な性分であることも否定できない。決して社交的だったり、外向的であるという態度を示すことは少ない。物事を、自分の中で考えて結論を出すことによる行動原理なのだ。口八丁手八丁に何かをするということはない。ただ、当然に自分の意見が無い訳ではないので、それに沿って動き出すということが多々あるパターンとなる。言ってしまえば、自分の意見を述べることはあれども、営業トークの類は苦手という感じだろうか。そういう訳で、私から誠実に何かを述べることや、考えることを取り上げると、私に取り柄はなくなると言って良い。

バランス的に何もかもをこなすというよりも、一点集中、一点突破に行うことが功をなすことが多いのである。自分の全体的なものを、一点に絞ることによって、私のスペックは正常に機能するのだ。雑学的なものはさっぱりだが、好きなことに関していえば、余人よりも詳しい自信があるのである。

個人的に何かを成すことに、きっと適性がある。ディスカッション、ディベートの類から自分の利点が活きることは少ないと思う。ある条件下や制限の中で動くよりも、完全に自由にしてもらってから自分なりの規律で動いている方が、意見やアイデアは整序されて、生まれてくる。そういうことなので、きっと私は自身が「内向的」な性分であることを否定できないのである。

ただ本当にネガティブになることは無いに等しいことで、頭の中は、案外に普段からあっけらかんとしたものである。最悪の事態を想定して備えることや、失敗学の類とはきっと相性が悪い。いや後者は逆にアリなのかもしれない。うまくいかないことがあっても、学びを得て次に活かすことだから、やはり失敗学というものには縁遠い訳ではない様だ。

想定の楽観視というのは、平穏無事を常に望んでいるということよりも、より今よりも、現状よりも上手いこと事が運ぶにはどうしたらいいか、ということに的を絞って考えることが多いという意味である。故に必要とあらば金銭的に厳しい状態であっても大きな出費は厭わないし、安定の為に何かを我慢するということも控える傾向にある。これらは全て、後々にどうにかなるという楽観が底にあるからこそ、可能な決断である。あの時に杞憂をして、ああしておけばよかったという後悔をしない為にも、決断しなければならない時には、最高のそれをする為に、考えられることは理想的な展開すら現実的なものとして捉える。「うまくいかなかったらどうしよう」という考えには至らないという訳である。

この傾向は、私の現状を支えている大切なものだ。自己認識としても間違ってはいないと思うのだ。自分のアイデアは必要とされるに値する、何かしらの価値を有するという確信を持つことは、自分にそう思い込ませているというよりも、物事への捉え方が楽観的であるからこそである。これの利点として、もう一つ大きいことは、周囲の意見に流されないこともある。「そんなことは無理だよ」と、いかにも言われそうなことでも、そういう意見を「求めず」に、自分の信じるがままに突き進むと、きちんと結果がその先に控えているという現実は、何度も経験している「実際」となる。ここで他人の意見に振り回され、そのいかにもな意見というものに流されてしまうと、ただ単に結果はその通りになるだけである。自分にしか見えていない道筋というものが、きっとある。その筋を頼りに進んでいくことによって、私は他人の知らない世界を提供できるのである。想定を超えるという感じだろうか。自分自身を誰よりも信頼していなければ、こうはいかないと思うのだ。内向的であればこそだ。

自分の傾向の弱点としては、独りよがりになる可能性も大きいということだ。しかしそれも、ここで発表することの反応如何によって、それに陥ってしまっているか否かの判別ができる。そうした弱点は、ここで補強されているから安心なのである。いくら内向的な人間であるという自己認識があっても、それを自分の内に溜め込んでいるだけでは無意味である。そうした人間にも発表できる機会や、評価が付随することによって、私の性向と楽観的思考は、最大限に活きていることになるのである。

深い思考の海に沈んでいくと、ドツボにはまるような「錯覚」に陥ることがある。そうなると、どこにも進めなくなる気持ちになるのだが、ただ一人で思索に耽っている訳ではない、つまりはこういう場所での発表の機会が、私の意識を海上まで引き上げてくれる。自分以外の、誰にも理解不能な理屈を言い始めたらお終いなので、こうした「外」への意見やアイデアの発出は、自分にとって大切な、大切な往還運動なのである。これがあるからこそ、私の道筋は他者への理解を通過して、また新しい地平へと出ることができる。ただ、自分の底に沈黙する時間も同様に大切である。その底に沈む私に光が差し込む時、その光の当たった考えやアイデアは、他人の求める何かと合致しているのだろうと信じることは、きっと勘違いではない。そう考える私は、やはり楽観的、尚且つ根明であろうと思うのである。

一人静かに考える時間を設けることが、決して一人の意見に終始するものでないことを、私は自身で証明したい。それは普遍的、万人的な性質を帯びる時、多くの共感を生み出すことを信じて止まないことが、私の創作活動としての趣旨である。その希望は、楽観というよりも、信念に近いのである。

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