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物事について考えることは、何もアイデアを生み出す為だけとは限らない。

考えることそのものから副産物的にアイデアが生じることもあるが、それはたまたまそうなったようなものであり、やはり考えることそれ自体に価値があると言える。考えることは指向性を持たずとも全体的に波及することがあるのだ。

本を読むことも、考えることの延長線上にある、その一環となる行為である。考えることなしにただ鵜呑みにして本を読み終えることは、本を読むことの滋養を削減していると言っても過言ではない。名著に出会って考え方が変わるのは、以前の考え方があってこそである。比較に値する、何かしらの日々の見識を変える程の影響力があるから、それは名著となるという、そんな逆説的な言い方も可能となるのだ。

考えなしに行動を起こすことは、大抵は後悔の念を残す結果となる。それ以前に必要なのは、行動を起こす為の考え方である。計画性とは少し違う。きちんとした動機付けといった方が正確であろう。それをするという理由、趣旨の類が、きちんと整合性があれば、結果に頓着することにもならないのである。無論、結果は良いに越したことはない。ただ考えた結果、そうなったという事実に対しての感想は、無鉄砲に行うことと比較しても、より良い方面に働くのが通常ではないかと思うのである。

私はアイデアを捻り出す時には、「ただ考える」という時間を設ける。そこから気になることを一つずつ拾い上げ、これだというものに対しては、方向性や指向性を与えることになる。それが結晶化をすると、アイデアというものになる。そういうイメージがある。あれこれとこねくり回している状態が、考えているという状態だと捉えると分かりやすいかもしれない。ただこねくり回しているだけの状態では、考えは堂々巡りになっていることに等しい。ただ時間をかけると、何かしらの造形を得るようになるのか自然である。物事を無目的に考え続けることは、むしろ難解である。なので、考えることが「アイデア」になることは、自然の摂理とも言える。人の意図が加わっているのだから、自然と捉えることはおかしいかもしれないが、当然にそうなることは、自然にそうなることになるのだ。

外圧からではない、内発的な「必要」を思い付くと、それは必ずと言って良い程に、将来に貢献する必須の何かであったりする。無目的に何かを考えていても、必要なものは自ずと思い浮かぶものだ。それをいかに手にするか、タイミングとしては、いつにするか、思考は、そのように展開を続ける。ある所まで突き詰めると、それは(必然的と言って良い程の)帰結を迎える。それは考えていたことの「答え」にもなり、または将来の為に機能するアイデアにもなるのだ。それが熟考の結果である。

何かの「良さ」について考えていると、それは何故そんなにも良いのか、それが好きになる理由は、これだけあるという、そんな分析する眼が働く。(理由もなく好きだという衝動もあるのだろうが)大体のことには理由付けが可能である。そこから自分の性分がより詳細に分かったり、社会や世界との折り合いの付け方に結び付けられたりする。自己分析とは、自己アピールの方法を考えることではない。自己の内面に入り込み、外界との関係を再解釈する行為のことなのだ。自己の構成した認識が本当の自己である。社会的なしがらみから抜け出すと、更に自分というものが見えてくることがあるだろう。内面を探ることの良い点は、外圧的や社会的なことから、自己を縛り付けられないことだ。自分の「本音」を知ることは、結局は自己実現のようなことでも、大いに必要且つ活躍するだろう。逆に「何をしたら良いのか分からない」というのは、自己喪失の状態と言えるだろう。考え無しに、闇雲に過ごすと、そういう憂き目に合う羽目になる。他人の為も、行き過ぎると、そうなるものだ。

思っても見なかったことを思い付く、というのも、普段からの考えるという行為が必須になることである。普段の思索が、思いもよらぬ飛躍をすることによってのみ、予想外の出来事に結びつくのだ。それはしかし、一瞬自分を驚かせはするだろうが、あくまでも自分の考えの「延長線上」にあるものである。すんなりと時間と共に受け入れられて、その考え方は自分の人生の滋養や指針へと変わる。

自分の為になることを考えることは、案外に難儀である。それは人は社会的に、他人の為になることをしながら生きているからである。言い換えれば、他人のため、という大義名分がある限り、自己の望みに忠実になることは難しい。「お役目」を外れてこそ、見える自己の本懐、というものもある。それこそ、ふとした時間に、自分のしていることに思いを馳せてみると、そこに自己実現の「大成」があるかどうかの思案が可能となる。社会との接続とは、何も、滅私奉公のことを言うのではない。現代社会では自己の在り方と、その実現方法が、社会との強いリンクを表すことは珍しくないのだ。

真摯に考え続けることは、突飛な発想を生み出すことがある。これはギフトでもあって、その人生を変える程の影響力を持つことがある。何かに真剣になることは、ある閾値を超えて、誰かの役に立つことに終始する人生を超克する力を持つ。そこには「自己本位」があって、つまりは個人としての、願望や社会的意義を生み出す契機となる。群集心理を抜け出すことが、真理や正解を生み出すのだ。つまりは、個人であることが、社会性を帯びることは必然的なのである。一列並びでは、飛び出すという程の結果は生まれようもない。その点で、個人がファーストペンギンになることで、一気に事態が打開されることは歴史が証明している、又は社会的な出来事からも観測され得る事実なのである。

発想とは、誰かに尋ねて教えてもらうことではない。自分自身が発するものである。それをすることに慣れてくると、誰かの何気ない一言が、自分の思索の停滞を打開してくれることがあったりする。それも普段からの熟考があってこそだと思う。その恩恵が、また誰かのヒントになるかもしれない。大きく言ってしまえば、個人の貢献とは、実に社会的側面が強いのである。

自己の興味関心を延長している内に、社会的なニーズと合致することがある。それは自己の内側へと籠もることではなくて、自己の在り方が、外側へと延長するという、個人と社会性の合致を意味することである。無目的な研鑽が、誰かの為になることが起こり得るというのは素晴らしいことだと私は思うのである。そう思うと、自己の熟考を自分の中に沈殿させておくのは勿体ない。それは表現され実現されるべきものだ。

自己実現は、自己像と社会的役割の乖離の無さである。その為の熟考を惜しまないことは、自己認識と社会性を上手いこと接続して、その人の力の出力を最大限にする最高の方法なのではないだろうかと思う。発想をすること、アイデアを出すこと。全てはまずは、自己の在り方に掛かっているのだ。その前段階には、必ず、無為に「考える」ことがあるのである。

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