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何だかんだと

夏真っ盛りである。

暑さには参っているし、エアコンがないし(扇風機ならある)、そもそも暑さというもの対して苦手意識がある為に、結構に大変なのである。

毎年のことなのだが、慣れることはない。涼しい場所に繰り出せばいいではないかというのはご尤もなのだが、どうにもその元気すら失せる。扇風機の風を受けながら、室内で大人しくするのが、最も懸命な選択肢となる。それで耐えられるものならそのままだが、そうでなくなったら、流石に涼しい場所へと、私でも無理矢理に足を運ぶかもしれないが。

夏自体が嫌いという訳ではない。扇子や団扇で風をあおぐのは行為として好きだし、納涼という言葉が似合う季節として見れば悪くはないものだ。そして服装もポロシャツ一枚で過ごせるという気楽さもある。だから夏という季節には、過ごし方さえ合えば、それそのものとしての魅力が当然にある。

海水浴に繰り出すのは遠い昔の思い出だが、やはり夏といえば海である。盆の墓参りで母方の祖父母の墓に行ったのだが、その場所が高い場所にあり、少し坂を登らなければならないのだが、そこから海を眺めることができるのだ。日差しに肌を焼かれながらも、眺める海の光景は、気分を爽快にするものであった。夏の日差しと、海。絵面としてこの上ないだろう。その地域が海水浴場のある場所として地元でも有名な為に、楽しそうな若者が大勢いて、そんな空気に当てられるのも悪くなかった。

とはいえ、最近の夏の傾向は「酷暑」とも言われる程である。ここ札幌でも、数年前には考えることもなかった気温を例年記録している。小中高校生は、外出を控える為に夏休みの期間が延長されたという。確かに、そうした対策は必須であろう。今までの感覚を維持することに固持していれば、身体が保たないのだ。柔軟な身体感覚への対応は、その季節との付き合い方の基本ともなるものである。

いつだが、自転車で北海道一周を行っている人の動画をいくつか見たことがある。それは季節は冬は不可能なので、自然な成り行きとして、この季節でも自転車を走らせていたのだが、その映像では、爽快な風の中を駆け抜けるというよりは、暑さで参っている姿が印象的であった。暑さと走行の疲労があれば当然といえば当然なのだが、なかなかイメージ像としての、爽快感のある映像を撮るのは、難しいものなのだなと思ったものである。自分なら、シティサイクルで街中を走行するだけで手一杯だろう。ちなみにだが。そもそも地理が壊滅的なので、知ってる場所を巡るので手一杯だとも言う。

春、秋、冬の季節の過ごし方は決まりきっているのだが、夏だけは、自分の中での決定項というものが無い。いつでも手探りで過ごし、時期が過ぎると、風が涼しくなり、つまりは秋の到来を実感するのである。日本の西側に住む人達は、暑さなんてものは慣れっこなのだろうが、北国である我々には暑さ対策というものが必要で、縁側で涼を取りながらゆったりするなんてことは虚像に近いものだ。これはもう身体的なものでもあって、地域的文化としても、「暑さ」というものは一時的に過ぎない現象である。身体が暑さに慣れていないことは、もうどうしようもないので、こちらならではの暑さとの付き合い方を考えてみることが、今後は必要となってくるに違いないと思う。

私は、お茶で水分補給をこまめにするというのが一番のそれだが、何だか、当たり前のことである。とはいえ、暑い中で飲む冷たいお茶というものは、身体に染み込むというか、夏の現象として数えることが可能ではある。普段はホットを愛飲する者としては、夏の行為に数えられるのかもしれない。

この間、父方の祖母の家の庭の草むしりの手伝いをすることもあった。祖母は施設に入っているので空き家となっているために、その家の庭は雑草が生い茂り、その植物たちは元気に夏を謳歌していたのである。見栄えが悪いので、見る人がいなくとも、手入れは必要になる訳で、私も人手として動員されることになった。1時間を2日に分けて草むしりを行ってきたのだが、長袖の作業着を着て帽子を被り、日焼け対策を万全にして挑んだ訳だが、鎌で草を刈っていく内に、その単調な行為に陶酔感が芽生え、ばっさばっさと切っていると、体感的にはあっという間に雑草の山ができた。面倒な行為だと最初は思っていたのだが、やってみると(普段はそういうことをしないからか)楽しいという、そんな気分で作業を終えることになった。やったらやった分だけ成果が目に見えるようになるからか達成感も自然と湧いてきた。荒れ地を開墾する気持ちとはこんなものなのだろうか。人工的な手入れが入ることによって、庭は造形を持ち、人の目の鑑賞に耐え得るものになる。悪い気はしなかった。

当然に夏でも執筆は欠かさず行い、他の季節と変わらない部分もあるのだが、なんだかんだで、私の今年の夏も、その手探りの内に終わりそうである。8月も下旬に入り、しかし暑さは9月にも続いている可能性はある。とはいえ、何かしらをしている内に、いつの間にか秋が到来することによって、私の「夏」は終わるのである。そうした記憶が、夏を想起するものとして、浮かび上がってくる日がいつか来るのかもしれない。暑さにバテて寝転んでいるだけの日々にならないことは有り難いのだ。

盆踊り、花火、夏祭り。私にとってのそれらはノスタルジーで、私にはそれらに代わる何かが必要である。それにダイレクトに相当しなくとも、夏ならではの何かを見つけられたら、きっともっと夏という季節は、私に訴求するものを得るのだ。それ故のものが手に入ったのならば、それが夏本番だ。それはいつになるのだろうか?

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