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私は生活導線について語ることが多いが、本の並べ方一つ取っても、順不同のようでいて、よく見ると内容に沿った並べ方をしていることに、自身で気づくことがある。

これと特に決めて本を羅列している訳ではないのだけれども、一度決めた配置は、ずらされると変に気になるというか、元の位置に戻したくなる。これだと一度決まった配置は、自分の思考回路と生活に組み込まれ、即座に本を手元に引き出すことを可能とする。

「あの本はどこにあったかな」と探す羽目にならないことは、利点の第一のことであって、その本の内容が、次の必要となる本を引き出す為のトリガーとなる。その配置の全体像が、私の中の手持ちの本の構成となるのである。執筆部屋の本の置き場の配置構造が、記憶と生活を司っているのである。

それは何も本に限った話ではなくて、インテリアにも言えることである。つまりは「定位置」という概念を必要とするものなら何でもそれは当てはまるのであって、それらが全て、きちんと配置されることによって、全体像は生じる。その部屋には「機能」が備わり、私の創作や創意を誘導している。

定位置を頑なに変更しないという意味ではなくて、たまには移動してみたりすることもあるにはあるのだが、それは更なる相応しい位置に、つまりは新しい「定位置」に据える為だという認識をするのが正解である。過去の執筆部屋の写真画像を見てみても、今の方がよっぽどきちんと揃っている感が強いと思う。それは部屋の内装への試行錯誤が功を成したことの証明とも言えて、まだ見ぬ「完成」への、つまりは未来の執筆部屋としての完全な満足を獲得するための足がかりとなるものだ。

部屋の内装にも「アイデア」は必要であって、置き方というのも、結構に頭を使う必要があるものである。都合良く空いたスペースにぽんと置けば、あらピッタリということは、実に稀なことなのだ。ただ頭をひねって考えてみると、意外な所にピッタリと置き場が収まることは多々ある。つまりは、考え方次第で配置は決まるという訳だ。思ってもみなかった場所にジャストフィットするなんて場合は、良質なアイデアを想起できた時の感動に近いものを味わえる。

様々なモノには「規格」というものがあって、それに沿って綺麗に収まるという現象が起きることは承知の上なのだけれども、それでも多種多様なモノを部屋に置いてみるには、整理整頓上手でもない限りは、なかなかに配置がしっくりと来るものでもないのだ。それ故に適当に置き場を決めずにモノを散らかしておかないということは、私の思考も整頓していると感じる。だから、執筆部屋の構成は私の頭の中の構成力とリンクしていると言えなくもない。

散らからない部屋は、思索することを邪魔しない。というか、本来的なものに導いてくれると言えるかもしれない。あまり使わないものは、思い切って収納棚の引き出しに全て基本的に入れてしまい、普段遣いのモノは目に付きやすい場所に配置する。その塩梅が、生活のリズムとなって反映しているのであって、周囲の環境の視認できるものの程度が、私の生活の質を規定しているとも言えるのだ。そして周囲を結果的に「好きなモノ」だけで固めるということが、余計な思考を排除することに一役も二役も買っていることは間違いない。私の集中力は、こうした配置というものによって担保されるものである。

自分の好みを信頼することは、自身の感覚への信頼感でもある。それに人生を預けているというと、言い過ぎになるかもだが、確かに人生観の一端を担っていることではある。ここを疎かにしないことが、真摯に書くことに私を向かわせてくれているのだ。その生活や創作を構成する為に費やす力量は常に全力である。そして、それは更に向上していくことで私の創作行為を下り坂にしないのである。そう信じている。

明らかに文章が何も書けなかった時期は、決定的に不足していたことが、環境や周囲への興味関心である。本を読むことに真摯であったかもしれないが、こうした生活上の配慮、試行錯誤や思索の不足が、知識を吸収することを妨げることはなくとも、アウトプットすることには支障があったという訳である。過去の自分を振り返ってみると、よくもまぁ、こんな環境下で何かをしようと思ったものだと反省するばかりとなる。

文章をきちんと構成することができるようになった事と、執筆部屋の環境整備、生活への感性や安定というものが、無関係であることはきっとない。私にとって、それは実に密接に関連付けられたものであって、それに気づいて初めて、私は何かを執筆する資格を得たということなのだと思っている。

あえて言葉にするのなら、創作行為にも、生活行為にも、私は「構成力」を得たのだと言える。それは自暴自棄の正反対と言えるものであり、自分をきちんと意識的に規定することによって、自分本位である事が、他人の共感や感想を呼ぶことになったという意味である。だらしのない生活をすることが、同じような生活様式の人間の共感を呼ぶことはあれども、より万人に向けたものを書く人間にはそれは有り得ない。規定する力が、構成する力が、より物事を良くすることに貢献するというのが、考えてみれば当然のことながら、私の特に重視したい持論ともなるのである。それは気付きなのだ。

こうした構成力が、より大きな「纏まり」を得る時、私に関わる全体像は、拡張しているということである。そうして得た構成された物事が、より大勢の人達に共感やヒントを与えることになるのならば、それはまさしく、私が意図したことの構成力が功を成したことになったという何よりの証左だ。

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