小さな世界

ふと、考えにふける。

「本当に大切なものとは何なのだろうか?」

例えば、何者かから敵意を向けられた時、私たちはそれにどう立ち向かうのが正解なのだろう。

その敵意が届かない場所へ逃げるのか。

それとも敵と正面から向き合い、奪われた何かを取り戻すべきなのか。

逃げることは恥なのか。

戦うことが正しいのか。

思えば私にはいつ如何なる時にも敵がいた。

そいつはいつも私を傷つける。

だから私はいつも逃げてきた。

でも逃げても逃げてもそいつからは逃げられない。

そいつから傷つけられ、また逃げても逃げられない現実を知る度に、そいつの存在はより強大になっていく。

そうするうちに、逃げることすらも苦しくなった。

私は人が怖い。

醜態を晒し、あざけられるのが怖い。

酷く自信がない。

世界が怖い。

ならば、小さな世界で静かに暮らしていたいと考えるのは私にとっては必然なのかもしれない。

何者にもなれなくていい。

何も成せなくてもいい。

ただ安寧を得たい。

それが私にとっての理想なのかもしれない。

「戦え、卑怯者」

次に敵はそんな事を言うのだろうか。

そんな声すらも届かない壁を築き、全てを忘れて平穏に暮らす…

それがもしも私にとって本当の幸せであるなら、
胸を張って「幸せだ」と言えるなら、
そんな小さな世界に留まるのも間違ってはいないのだと、今の私はそう考えている。

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ここまでお読み頂き、私が何の話をしているのか気づいた察しの良い方もいるのでしょうか?

今回はアニメ「進撃の巨人」をシーズン4の途中まで見て思ったことを書き綴ってみました。

※多少ネタバレになってしまうかもしれないので、以降は注意してください。

「進撃の巨人」とは、壁の中に囚われた悪魔の民と呼ばれる人々が、自由と平和を求めて奔走するダークファンタジー。

進撃の巨人の作中では、頻繁に「壁」というキーワードが登場するのだが、私はこの「壁」こそがこの作品の主題であり、核であると感じた。

敵対するもの同士の壁、そして己の中にある絶望といった意味での壁。

勇気を持って壁から抜け出し、果てしない自由を求めるのか。

それとも壁の中の小さな世界で一時の安息を選ぶのか。

そんなメッセージがあるように思う。

進撃の巨人の世界では、圧倒的な「敵」の存在がある。

そんな世界で自由を掴むには、圧倒的な敵をも退ける革命的な武力、そして多くの血が流れる代償を背負う覚悟が必要だろう。

決して簡単なことではない。

抑えつける敵の力が強大であるほど振りほどくのは困難だ。

だからこそ、自由を諦め、壁の中で静かに暮らそうとする気持ちも理解できる。

この進撃の巨人に込められたテーマは、現実の私たちの世界にも置き換えることができる。

世界はとてつもなく広いけれど、人ひとりが持つコミュニティや思想は世界全てと比べたら小さなもの。

そんな広大な世界、その世界そのものに恐怖し絶望し、壁の中へ閉じ籠る人間も事実として存在する。

私もそんな人間のひとりだ。
壁の外には怖い敵がいて、そいつからは逃げられない。だから壁に閉じ籠っている。

それを覆すだけの革命的な才能や知恵や技能もなければ、絶対的な自信や勇気や覚悟もない。

そうやって臆病者は小さな世界で生涯を終えてしまうのかもしれない。

英雄やヒロインでもなければ、何も大事を成すことなどなく、ただ平凡に生き、そして死んでゆく。

でもそれはきっと間違ってはいない。
それが平凡であって普通なのだ。

皆が特別である必要などない。

ただ平凡に生き、平和に暮らせることは何よりも素晴らしいと私は思う。

果てしない自由を求めて強大な敵と勇敢に戦う英雄はとてもカッコいいし、理想的な姿ではある。

私もそうでありたかった。

本来、人は自由だ。
世界は果てしないほど広い。

ならば小さな世界で生涯を終えるのは少し勿体ない気もしてしまう。

いつか、壁を乗り越えて、果てしなく自由に生きられたらと想像をしてしまう。

いつか、私が「進撃」する勇気を持てる日は来るのだろうか。

小さな世界の壁の中で葛藤する日々はいつまで続くのだろうか…

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