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番長と青春の贖罪

あの番長は今、どこで何をしているのだろうか?

僕は今でも後悔をしている。

番長のところへ面会に行かなかったことを。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

その番長とは、クラスの同級生だった。

番長などという言葉は、今は死語かもしれない。昭和の時代はよく使われていたような気がする。

番長とは不良とも呼ばれ、喧嘩が強くて人情がある。
それが真の番長たるもの。
現代では絶滅した。

彼は「番長」などとは呼ばれてはいなかったが、僕が心の中で勝手にそう思っていただけだ。

彼とは小、中学校と同じ学校に通った。
母校は一学年に300人いる学校だった。
それまで彼と同じクラスになったことはない。

スポーツと不良、普通は仲たがいするものだと思うのだが、彼は野球少年であり、また不良でもあった。

中学のとき、僕は彼と同じ野球部だったが、彼は野球が上手くて2年の時からレギュラーだった。

僕はいつも玉拾いで、彼を羨ましく思ったりもした。
そして、直ぐにレギュラーをとる努力を諦めて、2年になってからは部活をサボった。

席は野球部のまま、帰宅部となり学校帰りは友人とゲームセンターに通うのが常となっていた。

彼は、勉強はできなかったが、スポーツ万能で女子にモテていた。

どこか憧れみたいなものを僕は彼に抱いていたのかもしれない。

3年のときに初めて同じクラスとなった。最初は僕の方から話かけたと思う。
仲良くなるには、さほど時間はかからなかった。

彼とは妙に馬があった。
学校の帰りによく家に遊びに行ったが、初めて訪れた時に衝撃を受けた。

彼はお母さんのことを、くそババアと呼んでいたのだ。
僕は『くそ』はつけないし、ババアとも呼んだことはない。

そこは超えてはいけない一線だと思っていたのかもしれない。

しかし、お母さんも彼のことをお前はバカか!とバカ呼ばわりをしていた。
『くそババア』と呼ばれるお母さんの方が悪いと思った。
子どもは親の背中を見て育つのだから。

中学を卒業してから、彼は地元の高校へ行き、僕は遠い関西の高校へと進学した。

地元に帰ってきた時はよく遊んだ。
高校はバイクの免許をとることが出来なかったので、どこに行く時も彼の原チャリ(原付バイク)の後ろが、いつも僕の指定席だった。

高校1年の夏。いつもように彼の後ろに乗り、国道1号線の交差点で停まっていると、後ろからパトカーが近いてきたのに気がついた。

原チャリの2ケツ(二人乗り)は違反だ。直ぐにパトカーのサイレンが鳴った。

僕は「パトカーだ。逃げろ!」と叫んだ。
彼はアクセルを全開し急発進させた。

そして、「あっ!」


僕はバイクから振り落とされ、道路に転がり落ちた。

彼は振り返り、心配そうに見つめていた。

僕は逃げろ!と右手を振って去るように促した。

バイクは白い煙を吐き出し、彼はその場から走り去っていった。

その後、パトカーから助手席に乗った警官が降りてきたので、僕は狭い路地を必死に走って逃げた。

「止まれ!」と叫んでいる声など耳には入らず、一目散にかけた。

2キロほど走ったところで、バテてしまい万事休すと足を止めた。

警官も息を切らしていた。
「このやろう!なんで逃げるんだ!」
と頭を小突かれた。

するとその騒がしさに近所の野次馬たちが数人ほど出てきた。

「乗れ!」と戻ってきたパトカーに強引に乗せられ、野次馬たちに見送られて、最寄りの警察署に連行された。

彼は逃げ切ったようだった。

僕は人生初のパトカー乗車だ。

「お父さん、お母さん親不孝な息子を許して下さい」とサイレンが鳴り響く中、心の中で謝った。

そして、これで高校も退学となり、親友との別れを思うと、悲しみが急に込み上げてきたが、涙腺を絞り我慢した。

ここで泣いたら、きっと警官に「コイツ泣いてるよ。情けないやつだ」と勘違いされるのが、しゃくだった。


警察署では名前や住所、親の名前、どこの高校だとか、運転していたヤツは誰だとか色々と聞かれた。

素直に質問には答えたが、彼の名前を教えることだけは抵抗した。
親友を警察に売ることなんて出来ないと思った。
しかし執拗に聞かれ、このままでは帰してもらえないと思い、彼を売ってしまった。

彼に申し訳なくて、自分が情けなく思った。

尋問が終わり釈放されて、家まで歩いて30分の道のりを、勘案しながらトボトボ歩いた。

捕まったことを親に内緒にしておくべきかどうか悩んだ。
そして今回は黙っておこうとの結論に達した。

また彼を警察に売ってしまったことになんと謝ったらいいか悩んだ。

自宅前に来ると、彼から話を聞いた友人たちが心配して家の前で待っていてくれた。
僕が尋問をされている間、何時間も待ってくれていたのだ。

嬉しかった。持つべきは友だと思った。

しかし、僕はこの事は親に内緒にしようと思っていたので、家の前でガラの悪いヤツらがいたら、家族が何事かと出てきやしないかと、内心ドキドキして、早く退散してくれ!とも思っていた。

そして彼に名前を警察に教えたことを謝った。
彼は微笑みながら、
「気にするな」
と言ってくれた。それが一番嬉しかった。

その後、友人たちに事情を説明して、直ぐに解散してもらった。
家族にはバレずに済んで安堵した。

また学校にも連絡がいくことはなかった。

原付バイクの後ろに乗ること自体は、罪にならないことを僕は知らなかった。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

高校2年の夏休みに地元に帰ると、彼は学校で喧嘩をして、高校を退学になっていた。
また家を引っ越していた。
母子家庭となっていたのだ。
そんなことを気にする彼ではなかったが、僕は心が痛んだ。

それから数年が経った。

久しぶりに彼の家を訪れると、そこは空き家となっていた。

そして、彼との連絡の術がなくなった。
今みたいに携帯があれば連絡もついたと思うのだが。

それから数年して、風の噂で彼が武闘派〇〇組の組員となったと聞いた。

ある時、夕方のニュースを観ていたら、その彼が映ったので驚いた。
面影はあったが、僕の知る彼とは随分と印象が変わっていた。

そのニュースは30年くらい前の、ある映画監督を襲撃した事件の実行犯としてだった。

信じられなかった。僕の知る彼はそんなことをする人ではなかった。

時が彼を変えてしまったのだ。
僕は居た堪れなくなった。

そこに至るまでに彼のそばには、いけないことは、いけないと諌める人がいなかったのだろうか。

しかし、そんなことを言っても、僕自身も勾留中に一度も面会に行かなかった。

行けば彼に会えた筈だったのに。

いろいろな葛藤があった。

世間体を気にした。変わってしまった彼に会うのが怖いという気持ちもあった。

そして、会うチャンスを逸して、また連絡の術がなくなってしまった。

僕は今でもそれを悔いている。
とても申し訳なく思う。

世間体や怖いなんて思うことはなかったのだ。

親友なんだから。それが親友というものだろう。

そのことが分からなかった。未熟だった。

贖罪。

罪滅ぼし。

そのような理由で保護司をつとめるものではないが、1号観察や2号観察の対象者と面談すると、ふと彼のことを思い出すことがある。

なにか手助けすることはできないかと思う。
そして、もう二度と罪は犯さないでほしいと強く思う。

これから先もずっと保護司を続けていきたいと思っている。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

罪を犯す人は好きでする人など、誰もいないと思う。
そこには本人にしか分からない事情があるのだ。

X(Twitter)でも人の呟きを、揚げ足を取って誹謗中傷する人がいる。

しかし、その呟きのひと言であっても、そこにはその人にしか見えない背景がある。

そこが見えないのに、また理解をしようともせずに、誹謗中傷することはいけないことだと思う。

だがそういう小さな邪悪的な感情は誰でも心の片隅にあるのかもしれない。

それがあるきっかけで表に吹き出したりする。
しかし大概の人は、そこへ理性で蓋をする。

人の本当の気持ちなど、はたから見ても分からない。

その人のことを理解しようと努力することが大切だと思う。

◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇  ◇

親友がいることは人生において、とても大切で幸せなことだ。

東日本大震災のとき、東京電力管内では計画停電となり、様々な商品がお店の棚から消えた。

関西の親友は、震災後すぐにダンボール箱一杯の乾電池やら、懐中電灯、カップラーメン、パンを送ってくれた。

嬉しくて垂涙した。

次は僕がする番だとも思った。

親友とは、『親』と同じ気持ちを持つ『友』のこと。

学生のときに、『親友』を作ることはそんなに難しいことではないと思う。

今日は元気がないなと感じたクラスメートに

「どうしたの?何かあった?大丈夫?」

と声をかけて、話を聴いてあげるだけでいい。

親のように真剣に聴いてくれるのが、親友であり、親にも言えないことを言えるのが、親友でもある。


あの番長は、今どこで何をしているのだろうか。

ただ、彼が幸せであってほしいと願うばかりだ。

ー了ー

最後まで拙い長文をお読み下さり、ありがとうございました🙇

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