嘔吐(サルトルではない)

「アッハハ」
「なんだよそれ」
「おかしすぎだろー」
気心知れた仲間数人と久々に集まり
昔から良く行く居酒屋でくだらない馬鹿話に花を咲かせる。
楽しくて仕方ない。
まだまだ話は弾む。
勿論、酒も進むし箸も進む。
お互いの財布事情で限界はあるけれど、
飲めや食えやの大騒ぎ。爆笑爆笑また爆笑。
側から見れば何がそんなに可笑しいのやら。

しばらくすると一人の男が突然黙り席を立つ。
無言で足早に厠へ向かう。
「英太郎の奴、まただな」
「ああ、あいつは酒弱いのに飲み過ぎだ」
「誰か見に行かなくて大丈夫か?」
「いつものようにしばらくしたらケロッと戻ってくるだろう。ゲロっとしてからな!」
アハハハの爆笑。

トイレで便器を抱える男。
実は酒には酔っていない。
はっきり言ってあのメンツの中では一番酒が強い。
酒を飲み始めて10年程になるが、
何時間飲んでも記憶は飛ばないし千鳥足とは無縁。
学生時代、連日連夜飲み会に参加しても二日酔い知らず。
それだけの酒豪。
しかし、介抱されているのはいつもこの男なのだ。
誰より一番早く席を外し、
嘔吐する。

彼は何故か
なにゆえなのか
どうしてなのか

楽しいと感じると吐いてしまうのだ。
嬉しいと思うと嘔吐するのだ。

だから彼は楽しい事があると楽しくなくなってしまう。
嬉しい事が直ぐ去っていってしまう。
そう言う哀しい運命を背負いし男なのだ。

幼少の頃、公園の砂場で砂のお城を作っている時、あと少しで完成と言う所で楽しさが頂点に達し、嘔吐。
砂の城どころか砂場ごと廃墟にする。

小学生の頃、ドッヂボールが強かった。バンバン相手にボールをぶつけ、最後の一人を狙い撃つと言う所で嘔吐。
いつでもこうして無効試合。

中学の頃、箸が転んでも可笑しい年頃、嘔吐、嘔吐、嘔吐。
学ランは4回買い換えた。4回目以降は彼だけいつでもジャージでいる事が許された。
ジャージは3年間で10回買い換えた。

高校時代、体育館裏でクラスメイトの女子生徒に告白。成功。カップル成立。嘔吐。
ものの数秒で彼女は元カノへ。

大学時代、たんまり借りた奨学金、金には困らない。
座っていれば単位が貰える底辺大学、
彼にとっては嘔吐する為にあった青春。
そりゃあもう吐いた。

仲間たちの馬鹿騒ぎが微かに聞こえる厠で彼は思う。

…さすがに歳も歳なのか、楽しい度に、嬉しい都度に嘔吐はキツい。こんな事ならもう感情を消そう。ちょうど明日から新しい仕事場へ行くんだ…

その日以来彼は感情を無にひたすら仕事に打ち込んだ。
上司の理不尽な怒号、パワハラ、そもそもやりたくもなく生活の為に仕方なくやっていること。
仕事は楽しくない。だから辛くても吐き気すら起きなかった。
彼は無感情ながらに思う。
嘔吐の気配の無い世界はこんなにも素晴らしいのか。と。
黙々と仕事をした。
そうしているといつの間にか出世していた。
仕事の要領を得たので独立してビジネスを始めるとこれが大当たり。
増える部下達。膨らむ資産。
高層マンションの最上階から大都会を見下ろし、
最高級のワインを含んだゲロにまみれなが彼は笑う。

「楽しいんだか楽しくねえんだかわかんねえよ」

嘔吐。

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