King & Prince「ピース」② 静寂のパレード
King & Prince「ピース」シリーズ 2本目。
前回に引き続き、未視聴の方は読まないでくださいね。
未視聴の方は読まないでくださいね。
未視聴の方は読まないでくださいね。
今回は、詞の読解ではなく、ほとんど感想文というか、「私はこう感じた」というものです。
なので、読んだ方には「こういう見方もあるのか~」ぐらいで受け止めてもらえると助かります。
初めてこの曲のタイトルを知り、試聴した時、私は
「あ、これは葬列のことかもしれないな」となんとなく思ったのです。
葬列かも、と思った理由を紐解いて、じゃあ葬列であると言えるのかというところまで考えていきたいと思います。
「静寂」「パレード」矛盾するタイトル
理由その1は、「静寂のパレード」というタイトルそのもの。
このタイトル、”静寂”と”パレード(喧噪)”という対極の単語によって構成されている、矛盾を孕んだものであるという点が好きだ、と、Xやスペースで言及してきました。
それゆえ、単純に「パレードを静かに行っている」というレベルのものではないなと、もっと極端なものを表現しているのではないかと感じました。
そこでイメージとして浮かんだのが、華やかなパレードと対極の、葬列でした。
昨日・今日・明日の三時制
理由その2。”僕”が、昨日・今日・明日の三時制で分割されているから。
一人の人間が、時制で分割されている。しかも過去現在未来すべて揃えて。
これは、日々生まれ変わるという意味での「死と新生」を表現しているのではないかと思いました。
”今日にサヨナラ~”以降は、生まれ変わっても=明日の新しい自分になっても、笑いあえるように、ということかと。
また、”変わっていく 君も 僕も”。
以前、別の記事で人称の話をしました。
この曲での一人称は僕、二人称は君。
でももう、二人称・君の範囲について深く検証することはしません。
今回は私の印象の話をしているからです。
おそらく、僕と君、ワンセットで「人間」です。
人間に等しく与えられる変化とは何か。生と死でしょう。
「静寂のパレード」=葬列なのか
ここまで、「静寂のパレード」は単に静かであるという意味ではないということ、そして今日の僕は死に明日に生まれ変わるのだろうということを述べてきました。
それらを総合して、では本当に静寂のパレードが葬列と言えるのかを考えてみます。
答えは、半分Yesで半分Noである、と思いました。
まずNoである理由。
(私の思う)この曲で示唆される死とは、あくまで魂のメタモルフォーゼに近いものであり、肉体の死とはおそらく違います。
葬列は、肉体を運ぶもの。なので、葬列とは言えない。
一方、Yesである理由。
やはり、魂が(生まれ)変わっていくから。
”変わっていく 君も 僕も”
先に述べたように、ここはやはり死と新生を示唆している、というのは譲れないところです。
新生するためには、形式上死を経なければならない。
だから、魂の(生まれ)変わりのための儀式として死が存在するのだと思います。
そのためのパレードなので、生まれ変わるはずの魂を運ぶ葬列と言えるのではないかと。
まとめると、明日に向かって生まれ変わるはずの僕の魂を運ぶ、肉体不在の形式的葬列、それが静寂のパレードなのではないかと感じました。
静寂のパレードの参加者
静寂のパレードは誰によるものなのか。
君と僕のものなのか。
これは私は違う、と思っています。
冒頭、
静寂のパレードに必ず魂の運び手としての”僕”は参加するとして、
ここで手を繋いでいる相手は”理想の面影”と明言されています。
”理想”ではなく、あくまで面影。
風景描写の儚さも含め、おそらく未来への希望とか過去の栄光とか、そういった華々しい類のものではないでしょう。
そして2番Bメロ
おそらくこれが、静寂のパレードのもうひとりの(もうひとつの)参加者のことを歌っているのではないかと思います。
希望ではないが、温もりを感じるためのもの。
パンドラの匣に残ったもっとも弱弱しいものが”希望”でした。
それよりもささやかなもの。そして温もりのあるもの。
うーん、難しいけど「幸せな思い出」とかでしょうか。
”もう一度笑いあえるように”というフレーズもありますし。
ちなみに、1番Bメロ、先述の”希望と呼べるほどの~”と相対する部分ですが、
これ、おそらく過去の僕と未来の僕に対する言及だと思うんですよね…(自信なさげ)
少なくとも、前段は過去のモノ、後段は未来のモノに向けた言葉です。
モノ(者)、この曲中出てくるのは「君」と「僕」だけですよね。
それ以外の有形物の名詞、ないです。
じゃあ君と僕、どちらなのか。
いきなり君に対して「嫌いにはなれない」って、ちょっとこの曲の世界観では攻撃的すぎるような。
となると、やっぱり僕への言及だと思うのです。
過去の僕を嫌いになれない、否定したくない、それこそが明日の幸せにつながると信じたいから。そういうことではないでしょうか。
誰もが静寂のパレードの最中
静寂のパレードの参加者が、僕と「思い出」と書きました。
では、残る「君」はどこにいるのか?
君もまた、君自身の静寂のパレードを行っているのでしょう。
君とは、視点を反転させれば「僕」。
誰もが、儚い思い出と手を繋いで静寂のパレードを歩み、日々死と新生を繰り返している。
きっとそれを、君も僕も分かっている。
個々のパレードの集合体が、引きで見ると大きなパレードになる。
夜から朝、新生するタイミング。その時がやわらかであること。
もうこれも感覚でしかないですが、少しでも痛みを伴わない新生であることを願う、といった感じかな。
出産の時って、赤ちゃんも痛いですから。
King & Princeの静寂のパレード
誰もが静寂のパレードの最中、と書きました。
King & Princeという運命共同体も、例外ではないです。
彼らは、私たちの目の前で新生しました。
その過程が、この曲のように消えそうな夜の中を孤独に歩むものだったのか。
儚い思い出だけを連れたものだったのか。
簡単に現実の彼らに重ねることはできないし、たぶんそんな弱弱しい歩みでは到底たどり着けないところに今現在、来ていると思います。
この曲が直接King & Princeに重ねるものではないにしろ、彼らのリスタートのアルバムの1曲目が、こうした新生を感じさせるものであることは、大きな意味があると感じています。
永瀬廉が「たしかに!」と思ったと、このフレーズを挙げていました。
彼らを含めた、歩み続けるものへのメッセージでしょう。
一番大事なものが何か。それはもうそれぞれの「僕」が決めること。
この曲が、彼ら含む聴き手を鼓舞する曲ではなく、肩の力を抜いて歩いていこうよ、と呼びかけるような曲として存在していたらいいな、と、謎目線で思いました。
考察でもない、長い感想文となってしまいました。
今回特に、読んでくださってありがとうという気持ちで居ます。
Fin
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