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第10回目 Saul Bellow, Collected Stories にある'Looking for Mr. Green' を読みます。舞台は大不況下のシカゴ。人々の苦しい生活、生き抜く力とは。

 "Saul Bellow Collected Stories"(Penguin)にあるノベッラ 'A Theft' の舞台は New YorkとWashington、短篇 'By the St. Lawrence' はMontreal 近くの Lachine でした。今回の短篇 'Looking for Mr. Green' の舞台は Chicago の一画、貧しい黒人たちの街です。
 短篇 'Looking for Mr. Green' は「コヘレトの言葉(Ecclesiastes)」にある格言、Whatsoever thy hand findeth to do, do it with thy might. が冒頭 epigraph に掲げられていて、この短編の主題の一つが示されています。1930年代の大不況下で大卒男性35才のインテリが、何年にも渡り短期のアルバイト店員を重ねたあげくに、やっと見つけた仕事に精を出し満足感を味わいます。シカゴの大火災(1871年)からの復興の努力が実ったと喜んでいたらやって来た1929年に始まる大不況の時代が背景です。

<本短篇の和訳文を約10人のご希望者に無償で提供し誤訳・理解不足などをコメント欄へ投稿頂けるのを待ちます>

 この短編「Looking for Mr. Green・グリーン氏を探し求めて」初出版は1961年とされていて、その後日本語の翻訳本が出版されたとことの確認が私には見つかっていません。依って翻訳権が消滅していると私は判断します。翻訳文書作成は自由となったものの、その成果である翻訳文書の利用方法の制限には、法の改正などの経緯からその可否については不明瞭な要素があるとのこと(参照情報はこちら)。ここで可否が議論されている利用方法ですが、不特定多数を対象とする出版やWEBでの公開をどこまで制限するかに関心が限定されているようです。少数の特定の目的で仲間内で使用することには問題ないものと私は推定しています(自信が無いからこう書いているのですが)。この辺の事情を調査するエネルギーと、このNOTE記事で私が遣ろうとしていることの「些細さ」のバランスを考えての実行です。
 以上をご了解頂いた上で、この和訳文の誤りご指摘や、理解への異論やをコメント欄に投稿して見ようと意気込んで頂ける方から入手のご要望が頂けることを期待しています。コメント投稿を頂けない方への和訳文提供を拒否しているものではありません。
 和訳文はクリエーターへの連絡機能を使用してその旨を、ご本人の e-mail address と共にお伝えください。概ね先着順に e-mail への添付文書として一両日中に送信します。(レイアウトはA-4 用紙全24ページ、縦書2段組)
 この企画の終了は、この欄にその旨、アナウンスさせて頂きます(来月末には遅くとも終了する予定です。本企画は2月末で終了しました。2022年3月2日追記

<インターネットに公開された解説・批評を覗く>

 味もそっけもないのですが、この短編のストーリーはチェコ(と思われる)人のサイト、にあります。ストーリーと短篇の間で「味わい」がここまで違うかと驚きました。この短編の楽しみ方と言う点では "Literary Theory and Criticism" と題されたこちらのサイトの方が面白いと思います。

<一部を拾い読みします Page 184, lines 11-22>

 1929年に始まる大不況下のシカゴ、世界から職を求めて集まる人たち、それまでの40年間に南部から職を求めてやって来て落ち着きかけていた黒人たちの地区も悲惨な状態、犯罪が放置される世界。それをイタリア系の食料店店主が10行余りの文章で解説します。言葉に書かれてはいませんが、カボネなどが暗躍した街の事だと思って読むと興味は広がるのです。Wikipediaにはこの頃、失業者などへの救援活動が他に先駆けてシカゴに広がったことも含め学べる話がたくさん書かれています。

【 原書 P184, L11-22 】
   No, he didn't know Green. You knew people but not names. The man might not have the same name twice. The police didn't know, either, and mostly didn't care. When somebody was shot or knifed they took the body away and didn't look for the murderer. In the first place, nobody would tell them anything. So they made up a name for the coroner and called it quits. And in the second place, they didn't give a goddamn anyhow. But they couldn't get to the bottom of a thing even if they wanted to. Nobody would get to know even a tenth of what went on among these people. They stabbed and stole, they did every crime and abomination you ever heard of, men and men, women and women, parents and children, worse than the animals. They carried on their own way, and the horrors passed off like a smoke. There was never anything like it in the history of the whole world.

<拾い読み部分の和訳>

  残念ながらこの店主もグリーン氏を知らないと言いました。人々は顔を知っていても名前を知らないのでした。また同一の一人が幾つもの名前を名乗っていたのでした。警察も同様に人々を知らないのです。元々名前を知ろうとはしていなかったのです。人が銃撃されたりナイフで刺されたりすると、人々は死体を持ち去るのですが、殺人を犯した犯人を捜さないのです。原因の一つとして、人々がそのような事件について何かを知っていても話さないのです。人々は検視官への報告の為に名前をでっち上げるのでした。報告を終われば一件落着です。もう一つはそのような出来事に何ら関心を持たないことでした。しかしそれは、例え事の詳細を知ろうとしても事実を徹底して調べ上げることが出来ないからでした。この地区の人たちの間に起こったことはその10分の1すら調べ出せる人はいないのです。人々はナイフで刺して、逃げてしまうのです。それに止まらず、それが世間にあるものならどのような種類の犯罪・悲惨な事件であろうとも、ここでも起こるのでした。男と男、女と女、親と子、動物以下と言うべき行動です。人々はそれぞれ勝手な行動を採るのです。そのあげく、そのおそろしかった記憶は煙の如く立ち消えてしまうのです。このような事件は、世界中のどこの歴史・記録を探しても書き残されていない、すなわち、無かったことにされるのです。

<読後の反芻>

1951年に出版されたとのことだから第二次大戦をはさんだと言え20年足らず以前の状況です。作者の生きた時々の出来事、状況に応じ時代を生きるという意味での当事者としてやきもき・はらはらしながら生きるという生き方の意味を大切に感じます。2000年に発行されたベローの「ラベルスタイン」にあった『TVに写る John Simpson の Jittering (イラクのサダム・フセインの戦争前後のニュース・レポートで活躍されたBBC所属のジャーナリスト)に付き合う事の方を生きている内は優先する。あまい詩に心休めるのは死の床に臥してからの楽しみに残して』という主張そのものです。私がここで反芻しているのは上掲の拾い読み部分と "Ravelstein" にあった次の一節です(私のNote記事、第2回目参照)。
You occasionally do come across a reader of Proust or a crank who has memorized whole pages of Finnegans Wake. I like to say, when I am asked about Finnegan, that I am saving him for the nursing home. Better to enter eternity with Anna Livia Plurabelle than with the Simpson's jittering on the TV screen.

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