22歳の自己分析


「人間だもの、」とは某有名な詩人の方が言っていた言葉だけど私もパクってそれをよく使う。
意味は少し履き違えているような気がするけど残念に生きてしまってる自分の生き方を正当化するのに「人間だもの、」というワードはとても優しい気がする。

まだ22年しか生きていないけど、もう22年も生きてしまっている。

人間としてはまだ若いと言われる世代ではあるが、自我を持って22年も生きてしまっているのでもう全然赤ちゃんではない。
仕事は楽しいし友達も居て、親とも関係が良好、趣味もあるし、環境にも恵まれていて、正直私は全て満ち足りていると思う。


それゆえなのか、そうじゃなくてもなのかは知らないけど私には恋愛面での「好き」という気持ちが分からない。
満ち足りているからそこに新しく「恋愛」の要素を入れ込む必要が無いのかなとすら思い始めている。

最近は色々な事に対して寛容になっている気がするけど、それでもまだ「恋人がいる方が良い」というような風潮は過敏に感じ取ってしまい「クリスマスは大切な人と過ごす」風潮なども露骨に嫌だな〜と思ってしまう。
人間は1人で生まれて1人で死ぬのになぜ他人と2人セットになる事が良いとされているのか、
すごく疑問だし、今まで生きてきて圧倒的に自分単体で居る方が調子がいい気がする。

そもそも年頃だろうが、年過ぎてても何でもいいけど人に恋人いるか聞くのは法律で禁止すればいいと思うし、図々しく聞く人は散れ!と普通に思う。

そんな私は、マッチングアプリで知り合った人とたくさん酒を飲むも大して酔わず、また好きが分からないなあという気持ちで風呂を沸かしながらこの文章を書いている。
並行して嵐の復活LOVEを聴きながら推しへの気持ちを拗らせてもいるので、我ながらどうでもいい所で器用な人間だなと益々悲しくなる。

正直恋人が欲しいとか思ったことは無い。

私の中にあるのは「ある程度の年の人間なのに恋人が居ないんだね」という目で見られたくないという世間体を気にした気持ちだけである。

こんなに盛り上がって普通に楽しかったとは思ったが、相変わらず「好き」や「ドキドキする」という気持ちが見出せず、またしても虚無に陥る。

割と人数も回数も会っているが、楽しいと思ってもそれ以上の気持ちにはならない。手を繋ぎたいとか、それ以上してみたいとか、全然無い。

そもそもドキドキとはなんなんだろうか、私がマッチングアプリをやっている理由は恋人が作りたいからではない。
他人に対して好きという気持ちを見出せるのか自分を確認したい、あわよくばそんな人と出会えた時には付き合ってみたい、きっとそんな理由なんだと思う。


本当に残念な人間だなぁと思う、でも人間だもの。


正直他人を好きになる気持ちを知ってみたい。
綺麗な上澄みだけを啜る推し活は全てにおいて利点しか無いけど、恋愛対象として好きになれる誰かが出てきたらそれはとても素敵だなと思う。

こうやって文章にしてみると世間体を気にして恋人を欲しがっているつもりだったけど、私はそういう世の中の人たちを見て誰よりも何よりもそういうものに憧れを抱いているのかもしれないな、と気づいた。

街中のカップルや映画に出てくる幸せな展開を見るとどれも素敵だなと思えたり、ドキドキしたりもする。
でも、憧れる反面どこか自分には無縁だなと思っている。


こんなに長文で拗らせている自分の現状を文面で晒して、なんて残念な人なんだろうなあと思う。

2022年最初の自己分析


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