見出し画像

成人 50万円失った僕 春

20歳になると、大人により規制されていた物が、自らの判断で選択することが可能になります。
それは自己責任であり、誰も止めてはくれません。

その選択肢が、「20」という壁を境に、以前から存在していたかのように自分の手元にあることは、不気味であり恐怖も感じます。
昨日まで、そこになかった物が突然やってきて、周りの人間はさも当たり前かのようにそれを受け入れている訳です。

タイトルにもある通り私がその大金を失った理由は、「20」という壁を超えてしまったからです。
それは自然の摂理であり、避けることは出来ませんでした。しかし、「20」には少なからず、いや大きな期待を抱いていたと思います。
今の現状を伝えることが出来たとしても、その時の私は歩みを止めることはないでしょう。
しかし私は今「20」になり大きな大きなお金を失っています。

最初は小石を投げる程度でも、積み重なると大きな塊になり、そこには徐々に大きな石が混ざり、また、積み重なっていくと、元の大きさなんて物は見えなくて、そこには膨大な塊がある訳です。

それどころか、いつしか未来の自分を騙し、利用し、今の自分の力では投げることのできない大きな岩を投げていました。
そのことに気づいたとしても、もう私の中には、自分自身を止められるものがもう、どこにもありませんでした。


私がお金を失い始めたのは、学生時代でした。
その頃、私は自由に生きるために、アルバイトを始めました。

お金が集まってくると、選択肢は自然と増えていきます。

「20」を迎え、私には更なる選択肢が与えられました。
多くの事に興味を持つということは、素晴らしいことでもあり恐ろしいことです。

その中でも一つ強い興味があると、それは自分自身の判断を鈍らせます。
選んではいけない選択肢というものがあるなんて思ってもいませんでした。
自分の力では、抜け出せない沼が目の前にあったなんて、思いもしなかったのです。


私が足を踏み入れた沼は思っていたよりも深く、予想以上の速度で身体は沈んでいきました。




その中でも、時々明かりが見えることがあります。

しかし、それも日が経つにつれ、薄くなり、ほとんどは暗闇の中を生きています。

もうこの時すでに、地上に戻ることを考えることはありませんでした。

それどころか、時々見える薄い薄い明かりに希望を照らし、自分の中の地上の解釈を狭めることでなんとか生き延びていました。


R4.4月、私は社会人となりました。
よく大人はお金の価値を、労働した時間や内容など、仕事の価値との対比で説明します。
しかし、それは実体験無くして理解が得られない物です。

今年、といってもまだ1ヶ月も経ってはいませんが、私は少なからず、生きていくための仕事というものを経験しました。


しかし、私にはそのお金の価値という物がどれ程のものなのか、未だに理解できていません。


それは未だに私が、いつか目を開けていられない程の眩しい光が、突如、現れることを期待しているからかもしれません。
今、私がどこにいるのかは分かりませんが、最近見える明かりは一段と薄く、白というよりも灰色、そして、黒。

いつか眩しい朝日に起こされ、静かな月夜の下で眠れるような毎日を送りたいものです。

私はこれからも、自分が失ってしまった価値に気づくたび、文章にしていくことでなんとか、救われたような気分になりたい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?