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男女の友情と挟まるカニカマ。

 定義はわからないけれど、人よりも友人は少ないような気がするし、悲しい。友人の中でも、本人を目の前で友人かどうか問われれば、即座に、尚且つ自信を持って返答できるような気はしない。
 友人指数があれば、楽なのかもしれない。けれど、数値化できないものほど、強い友情かもしれない。なんとなく、人の嫌いを好きになることは美しいことだと思う。多少の愛は必要で、でも愛はいらない気がする。

 ある日、「珈琲は黒くないのかも知れない」とあの人は言った。私は黒いと思う。
 珈琲は光を通すのだから、黒くはないらしい。この街がコーヒーで溢れれば、そこは黒いと思う。薄く貼られた珈琲を見れば、黒とは思えないかも知れない。でも、集まり、黒くなるのであれば、珈琲の総意は黒。


 個人の意見を尊重したいらしい。周りに流された結果の黒は、分解すれば黒くはないのなら、黒と呼ぶには珈琲を知らなすぎる。と。
 珈琲は黒い。


 カニカマは赤と言えるのか。


 1列にすれば、カニカマの過半数は白い。しかし、少数の赤のために白は赤となる。白いカニカマはカニカマではなく、赤いカニカマになる。カニカマであるためには、白を必要としていても、白はカニカマではなく、カニカマは赤い。
 いつか逆燐に触れ、翻されることのないよう赤いカニカマは白いカニカマとの関係を見直すべきだと思う。

 ただでさえ限られた時間の中で、お互いの共通部分でしか会えないなら、友人は少ない方がいい。
 いつでも会える友人がいいらしい。なによりも優先できる友人なら、友人は1人でもいい。一方的かもしれない。感情は一定ではないから、それは危険。

 
 友情の永遠性について考える。

 若いうちに、隅まで触れておかなければ。
 そのうち、会う回数は減っていく。嫌われないように、且つ、近づかないように。数年に1度会えば、薄まる記憶からお互いを確かめ合うだけ。同じ会話だけで、永遠性は確立されるような気がする。近づくことが許されるうちに、溜めた分、続く。
 
 友情は触れすぎても、抉ってはいけない。責任はなく、でも、信頼は欲しい。全てを受け入れて、でも、それは全てではいけない。友情には愛が必要で、でも、愛し合ってはいけない。




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