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「すずめの戸締り」を観た

深海誠監督の映画「すずめの戸締り」を観た。

コロナ第八派の影響は思ったより大きいようで、私もいつも通りに身動きが取れなくなった。仕方なく、いそいそと、こそこそと出かけた近所の映画館で観た。深海誠監督の映画「すずめの戸締り」。

予備知識も何もなく観たら、まさかのロードムービーだった(ロードムービー大好きなので一人で沸きました)。

高校生のスズメは、ある日旅をする青年草太と出会う。草太は、日本各地にある「後ろ戸」を閉めて回る「閉じ師」をしているのだと言う。その「後ろ戸」が開かれると、〈ミミズ〉が現れ、災害が起きるのだ。スズメと草太は、「後ろ戸」を閉めるために全国を旅をする。
というのが本作のかなりざっくりとしたあらすじだ。(※ここからネタバレを含みます)

印象に残った場面があった。ある廃墟になった遊園地にある後ろ戸を閉めるとき、スズメが観た光景。かつて遊園地を訪れていた人の姿、声だ。

扉を閉めるべく、全国を回るスズメは、単に〈ミミズ〉と戦うのではない。そこで彼女は、「その土地の過去の記憶」を観ることになる。それは“今はもう誰も訪れなくなった場所”の“でも確かに、存在していた人々”の記憶や息遣いだ。
そして、「後ろ戸」の向こうにあるのは、“〈ミミズ〉という悪い奴が住んでいるあっちの世界”ではない。日常に生活をしている私たちから忘れ去られてしまった、あるいは忘れ去られようとしている記憶もが、閉じ込められていたのだ。
スズメにはそれを観ることが出来た。
そしてこの映画を観る私たちも、スズメの〈目〉を借りて、観ることになる。

物語の終盤、スズメがたどり着くのは、自分の生まれ故郷。そこで観るのは「震災の記憶」だ。スズメが生まれたのは、あの3.11の津波によって流されてしまった東北の町だったのだ。そこで、後ろ戸の向こうの世界「常世」で、母を見失い泣きじゃくる幼い自分と出会う。
この、出会いの場面で、「前を向いて生きるのよ」と幼い自分を励ますのだが、正直、“それ以上言ってしまったら矮小しかねないギリギリのライン”で踏みとどまっていた感は否めなかった。しかし、扉を閉めて災害を防ぐと言う話からのこの飛躍は凄まじいと思った。

他にも、妹が死んだ後にスズメを引き取るも、いつの間にか婚期を逃してしまっていた叔母の物語とか、神戸で出会うスナックのママ(そういえばこの人も夫のいる気配がない…)の生活実態が垣間見えたりと、後からあとから、あれもこれもと、いろんなことが言いたくなる映画だった。


もう一つ。観終わって今も考えていることがある。何故、「扉」だったのだろうか、ということだ。

扉は、あまりにも私の身の回りに溢れている。
一体1日のうち何回扉を開け閉めすることになるのだろうか。

だからといってこの映画が、大切な記憶はいつも私たちのそばにある。だから忘れないようにしましょう、と言いたいわけではない。

きっと、観るということが大切なのだ。
私たちには観ることができない。
でも、スズメには観ることができる「それ」を。

それを見ている自分に感動できる映画は、いい映画だと思う。

いい、体験でした。

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