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批評には「型」がある 「読み」と「書き」の切り口

批評を勉強していて気づいたことがあります。
以前、北村紗衣さんの『お砂糖とスパイスと爆発的な何か』を読んで「なんでもかんでもフェミ論に持っていきやがって、とまでは思わずとも、そうかな? そりゃこじつけでは?」と思ったのですが、これが批評という見方の中ではたいそうズレていたことがわかりました。

作品をどういう切り口で切るか。北村紗衣さんの場合、それが「フェミニスト批評」であって、私がその切り口で作品を読まないこととはなんの関係もないこと。件の小説『華氏四五一度』(レイ・ブラッドベリ著)はディストピア小説。これをまんまディストピアとして読んだ私の読みにはナンの新しい発見もなく面白味もないわけです。ディストピア小説をフェミニスト批評の視点で読む。その新しい読みを提供しているからこそ北村紗枝さんの批評は面白いのです。

そこで批評(おもに文学批評)にはどんな切り口があるのか。参考文献をもとにザックリまとめてみました。


批評の古典 「作家論」

「この作品における作者の意図は何か」を探る批評です。批評の古典、批評のはじまり(19世紀ごろ)とも言われるものです。特に作者の生涯を研究して作品を読み解くものを「伝記的批評」といいます。

が、この伝記的批評に対しある問題点が指摘されます。
「作者の生涯って言ったって、全部を知ることはできんやん!」

ごもっとも。で、そこから”作者→作品”ではなく”作品→作者”という分析「作品論的批評」が注目されはじめます。

作者には死んでもらおう……、 「構造主義」 

が、「作品に作者が何を伝えたいかなんて重要じゃないよ。作者には死んでもらおう!」というまさかのツッコミが。

これが「作者の死」という批評における重要な概念です。こんなことを言い出したのは誰か?フランスの批評家ロラン・バルトです。この人、超重要人物で文学だけじゃなく映画批評にも登場します。

「作者が何を伝えたかったかは重要ではない」 いやいや、本を読んで映画を見て感想を書こうとしたら、まずそこが気になりますよね。学生時代の読書感想文では、ここがキモともいえるとこ。

作者(映画の場合は監督)のインタビューは、作品の背景を知るうえで参考にもなるし、作者、殺していいんですか!?

が、バルトは、作品における作者の支配者的立場を痛烈に批判します。作品の背後に作者をおくことは作品の意味を限定してしまう。むしろ作品に死をもたらす、と。

そしてバルトは、作家や作品の個性を否定し、すべての作品には共通するシステム(構造)があると考えました。これは当時(1960年代)の文学界に大きな衝撃を与えたそうな。そうでしょう。”わかる人にはわかる”を全否定したわけですから。

そして、物語の構造を細かく分析し論理的に分析する「構造主義」が誕生します。

バルトを「重要人物ですっ!」 と紹介しておきながら私は正直この「構造主義」はよくわかりません。作者や”わかる人”だけに作品を牛られるのもイヤだけど、かといって「システムだ」「記号だ」と言われても……。

マルクス、フェミニズム……、 「イデオロギー批評」

そんな構造主義に対しても、また、批判の声がー。

「構造主義は社会や歴史的背景を無視してるやん、言葉は社会的な価値観(イデオロギー)に大きく影響されてるやん」

そこで登場したのがイデオロギー批評。代表的なのは「マルクス主義」。超ザックリいうと、作品は特定の階級(資本主義社会の支配階級、労働者階級)の世界観を代弁しているという見方です。

イデオロギー批評はさらに広がりを見せていきます。「フェミニズム批評」「ジェンダー批評」「ポストコロニアル批評」(*民族という視点から作品のイデオロギーに注目/エドワード・サイードの『オリエンタリズム』は代表的名著)などがその代表です。

読者がどう読むか……、 「読者論」

しかし、イデオロギー批評も大きな岐路に立たされています。「人種」や「性別」の違いは意図的に作られたものであり、その垣根を撤廃すべきという見方が生まれているのです。

さらにイデオロギー批評の「社会を反映」という部分にも重要な疑問が。

なぜ私たちは遠い過去の文学作品に心を揺さぶられるのか。なぜ『源氏物語』が今も広く読まれているのか。

この問題に対しドイツの文学者ハンス・ローベルト・ヤウスは、「読者」という存在に注目しました。読者が新しい小説を読むとき、無意識のうちに過去に読んだ作品の影響を受けて読んでいる。ヤウスはこれを「期待の地平」と名付けました。さらに「期待の地平」が裏切られるような作品を文学的価値が高いとみなしました。

ここまで見てきた批評の型の中で、私が最も「なるほどな」と思える切り口です。「読者論」ありがとう。

が、この「読者論」にも疑問の声がー。

「”期待の地平”って言うのも客観的な根拠はないよね。みんながそう思うっていうのも幻想でしょ」

たしかに……。特に作品を読むことで「人生を豊かに―」とか「自分の考えの誤りに気づきー」といった読書感想文の締めに書きがちな考えを、リベラル・ヒューマニズムというイデオロギーそのものだと批判しました。

読者がどう読むか、どう解釈するかを批評の対象とする読者論では、作品そのものがわからなくなるー。

もうカオスですよ、批評、厄介……。

イマココ!? 「メディア論」

そして登場したのが「メディア論」です。これまでの批評とは異なり、読者がどのようなメディア(媒体)で作品と接しているか、という研究です。

作品における出版メディアの役割、さらには作品自体の活字だけでなく挿絵や装丁など視覚的なメディアでもあるという特性。作品をそうした”メディア”として研究することで、読者と作品の間に介在する支配と犯行のメカニズムを理解しようという批評です。

まとめ

以上、「批評の型」をザックリとまとめてみました。

ここに紹介した型がすべてでもなく、分類の仕方も諸説あります。また、古くからあるもの(作家論など)が衰退し新しいものに取って代わられたのではなく、それぞれの型もまた新たな解釈を含め進化しています。もちろん、どの型がイイとか悪いとかいうものでもありません。これほど多彩な「読み」があるという点が非常に面白いと思います。

批評の型の理解は、批評を「読む」ときはもちろんのこと、「書く」ときの「なぜ書くか」に還元される重要な知識です。興味のある方は、ぜひこちらの参考文献もどうぞ。



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