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少数精鋭とレベチ/コンテクストをすり合わせる/本音と虚構

2021年2月14日

昨夜また東北地方で大きな地震が起きた。ちょうど東日本大震災から10年の今年。どうか大きな被害が出ないことを祈るばかり。

昨日の朝日新聞土曜版のお悩みコーナーに寄せられた相談が面白かった。いや、人さまのお悩みを面白がるのは趣味が悪い。相談者は50代の女性。30数年来の友人から絶交を言い渡されてショックを受けているという。相談者に思いあたるフシはなく、とにかく友だち付き合いをやめたいと言われたそうな。

で、相談者曰く「私は友だちは少数精鋭なので彼女の穴を埋める人はいません」と。

友だちは少数精鋭? 「少数精鋭」ってこういうときに使う言葉? 友だちは己の戦力なのか? ははん、こういう考えだからきっと本人が気がつかないうちに気に障る一言を言ったんじゃないのかね、と思えてならなかった。ま、完全に余計なお世話ですが。

こうしたことにいちいち引っかからない穏やかな夫曰く、それは単に「友だちが少ない」ってことを言いたかっただけじゃないの? と。そうか、そうね、そう願う。

で、この日の午後。買い物の車中でラジオを聞いていると、福山雅治が「レベチ」がどうのこうのと語り出した。リスナーからのメールで、「レベチの彼氏」と別れるのどうのという話だった。

レベチ、「レベルが違う」という意味だ。彼氏がどんな人でどんな付き合いかはわからないけれど、そこに「レベル」という感覚があるのはなんだかちょっとな……、と、また「友だちは少数精鋭」を思い出してモヤモヤした。

が、ここは穏便に考えてみた。「レベチ」といった新しい言葉になった時点で、レベルが持つ「格」の意味は薄まっているのだろう。人づきあいでは必ずある「話が合わない」「価値観が違う」「習慣が違う」といった「格」のない差異であっても、レベチなのだ。レベチとはそういう言葉なのだ。と思うことで納得した。


これが、先日読んだ『演劇入門』(平田オリザ著)のコンテクストのズレなのかもしれない。
コンテクストとは直訳の「文脈」の意味だが、文脈や状況、背景をもったの言葉と考えるとイメージしやすい。

私は友だちや恋人、家族などを考えるときに「少数精鋭」「レベル」という言葉は使わない。もし私が役者で「私は友だちは少数精鋭なので彼女の穴を埋める人はいません」というセリフを渡されたとしたら、おそらく友だちをも戦力とみなすイヤな女の気持ちでこのこのセリフを読むだろう。が、演出家はそうじゃないかもしれない。単に「少ない」という意味でしかなく、ホントに絶交されたことに戸惑う女の気持ちで読んでほしいのかもしれない。

こうしたコンテクストのズレは常にある。自分のコンテクストの範囲を認識すること、そしてその状況や背景が求めるコンテクストを無条件に受け入れるのではなく、すり合わせていくための「対話」が必要なのだ。「演説」や「会話」「独り言」ではなく「対話」。 苦手なのよね、私。


日本人に比べ、めちゃくちゃ情熱的で、互いの気持ちも身体もガンガンぶつけ合う人々のお国、スペインが舞台の映画『誰もがそれを知っている』(2018年)で一考。

映画は親戚の結婚式でスペインの田舎町に里帰りし、娘を誘拐されてしまう女性を中心に、家族や元カレの思惑が露わになっていくストーリー。

みんなが家族のような付き合いをしているムラ社会の中ではすべての事情が筒抜け。感情表現も強いし、目ヂカラも半端ないし、隠し事なんて無理な社会なのに、人はやっぱり秘密を持つものなんですな。「コンテクストのズレ」なんてもんじゃない。

本音と虚構のコントラストが凄すぎる。こうした光景は映画だけでご勘弁を。


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