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「わかる」を許さない世界/探検家が見せてくれる日常/社会の役に立つとは

2020年7月23日

今村夏子氏の小説『こちらあみ子』を読む。

ちょっとアレな女の子あみ子と、悪気のないあみ子の行動に振り回されたり、傷つけられたりする家族や周囲の人たちを描いた短編小説。

とても悩ましい小説だった。いや、「だった」と過去形で言える日が来るかわからないほど重たいものを背負わされた気分だ。あみ子は発達障害かなにか他者とのコミュニケーションに問題を抱えた人だと読み取れる。が、そうやってあみ子を理解しようとしても、自分の中の何かがそれを許さない。

理由をみつけて「理解しよう」「納得しよう」とするのは人間の思考の癖だと、千野帽子氏の著書『人はなぜ物語を求めるのか』で読んだことがある。

「なぜそうするのか」「なぜこうなるのか」を理解したほうが心がラクにいられるわけで、ときには怒りを覚えるはずの相手や出来事にさえ「歩み寄った理解」をしようとする。実社会においては、そのほうが他者とのトラブルも避けられるしストレスもない。デキた人、と思ってもらえることさえある。

以前このブログで「わかってもらいたい病」を解説した本のレビューを書いたが、これと病根は同じ「わかりたい病」「わかるわよ病」なのかもしれない。この小説が見せる世界は、そんな「理解」でおさめることを許さない。「わかる」「わかった」ということで、実は面倒なことから距離をおこうとするズルい自分を容赦なく映しているようで、怖い。

怖いよ、あみ子(注:ホラー小説ではありません)


探検家、角幡唯介氏のエッセイは、あみ子とはまったく別のアプローチで「わかる」といえない世界を見せてくれる。

私の世代が探検家といって思い出すのは植村直己さんだろう。日本人で初めてエベレストに登頂し、1984年に冬期のマッキンリーに世界初の単独登頂に成功後、下山中に行方不明となった人物。登頂成功や遭難が大々的に報じられる中、植村さんがどんな人であったかまでは子どもの私が知る由もなく、以後、探検家といえば無口でストイックで、孤独を愛する山男というイメージを勝手に描いていた。

「家から出るのもめんどくさい」私には到底理解できる世界ではなく、フィクションでも冒険ものにはいまだに興味がない。

が、6月30日の日記にも書いたが、このコロナの最中に北極圏を探検し、帰国後日常と非日常が逆転した世界を体験している探検家、角幡氏の視点が私の「わかる」をはるかに超えていて面白い。

読んだのは角幡氏が36歳当時のエッセイ『探検家、36歳の憂鬱』(のち文庫として『探検家の憂鬱』に改題)。ときどき「あ、そういえばこの人探検家だったな」と思ってしまうほど、日常の視点は「日常」で、雪崩に巻き込まれたり、シロクマに遭遇したりする「非日常」を味わっている人ということを忘れてしまいそうになる。

日常と非日常は「地続き」にあるもので、これまで日常と思ってきたことが非日常になっていく。それをどうにかして自分サイズで受け止められる日常として維持しようと、「わかる」とか「理由」を求めて悪あがきしているのかもしれない。

角幡氏の赴く北極圏や雪山には、自分サイズで受け止められる日常などどうあがいてもない世界。「わかる」なんて言えない世界なのだ。


その、探検家、角幡氏が、最近あるインタビューで若い記者に「探検という仕事は、社会の役にはなっていないのでは?」と言われたという。

記者は自分たちの世代は常に「社会の役に立つ」「生産性に貢献する」ということを求められてきた、そんな圧力ばかり感じる、と。

たしかに。自分がまだ何者かもわからないうちから「社会貢献」と言われてもな、腹立たしいだろうな、と思ったけど、最近の若い人(この言い方、スイマセン)はそんな反発を示す代わりなのか、「絆」とか「つながり」という言葉を多用しながら「社会貢献の入り口にはいますよ」を必死にアピールしているように見える。

「社会の役に立っているのですか?」と尋ねる人は、あみ子の話をどう読むのだろう?


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