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フィルムカメラと、自分を知ること
「ぼくもぼくのことが理解できればと思う。でもそれは簡単なことじゃない。だから絵に描くんだ」
(村上春樹『騎士団長殺し 顕れるイデア編』より)
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突然だが、僕はほぼ自己満足で写真を撮っている。僕は撮った写真の99%をSNSにあげない。彼女をメインで撮るが、彼女のために撮っている、という認識もない。あくまで自分が撮りたいから撮っている。
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写真を撮ることによって得られる副次的な効果がひとつある。自分自身の理解につながるだろうということだ。もし自分自身のことを少しでも理解したいと思うのならば、写真を撮ってみるとよい。
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それも、できればフィルムカメラを使うとなおよい。デジタルカメラだと、どうしても濃度が薄まる。丸一日歩いて撮った何百枚の中で、失敗した(気がする)写真はかたっぱしから消してしまう。あとには、なんとなくうまく撮れた(気がする)写真だけがフォルダに残っていく。
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反面、フィルムカメラをつかえば、おのずと撮影枚数は制限される。1枚のシャッターを切るのにも逡巡することだろう。ファインダーを覗いてはみたが、結局シャッターを切らなかった。そういうこともたくさんあるだろう。
そういう逡巡を乗り越えて、貴重なフィルムの24mm×35mm分を消費してでも、自分が残したかったもの。その36回の繰り返しが、まさに今の自分そのものなのだ。
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その36枚の中には、比較的よく撮れたものもあれば、明らかな失敗写真も含まれているに違いない。いずれにせよ、いちど焼き付けてしまった光は二度と消すことはできない。
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これはきわめて人生的だと思う。愛する人を腕に抱きながら眠った夜も。人知れず枕を濡らした夜も。すべてはそこに残っていく。そこに良い悪いはない。ただ残っていく。
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思うに、残っていくことに意味がある。ぎりぎりまで深淵に近づいた夜も、10年経って思い返せば、自分の人生において深い意味を持つ夜だったと気づくかもしれない。
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