ふるえる

(2023年2月13日)
(自分が今思っていることを自分用に書いたのですが、納得感があったので載せてみます。多分、そわそわ感にも通ずるものがあります。)

創作をしている人が怖い。物語を書く人とか正気じゃないと思う。正気じゃない人が集まっているのはもっと怖い。物語を書くことができるのは世の中にひとりでいい。でも、物語を書く人は思ったよりもたくさんいる。怖いよ……

胸に深く深く刺さって決して抜けない棘を目指して、切磋琢磨している様を想像する。人のこころ自体がどうしようもなく刺さるのだから、殺傷能力を高めないでほしい。そして、そこまで人のこころに深く刺さるものをつくれるのなら、そんな人は全員人間国宝になってほしい。なんでそのなかで争うの……。本当につらい。

なんで私がここまでつらいのかが本当に分からない。小説のことを考えると胸がぎゅってなる。なんかもうほんとうにしんどい。こんなことを書いているくせに全然小説は読まない。小説が世の中に数冊しかなかったら、多分私は小説のことが大好きだったと思う。他の誰よりも、その数冊を大切に読んで、その背後にいる人のことに何度も思いを馳せると思う。でも、小説は大量にある。ほんとうになんで???小説って結構分厚いですよね。文章の量が多いですよね。しかもあれって、こんなへんちくりんな文章みたく自分の思っていることをだらだら書いているわけではないですよね。え、本当になんで小説ってあんなにたくさん存在するの?しかもあれって本になっているから、本になっていない小説はもっとたくさんあるんですよね。いや本当になんで?大丈夫か世界。

多分、私が小説をかける人間だったらこんなにつらくないんだと思う。でも、私は気がついた。なんと、私に小説は書けない。それもつらい。なんで小説を書ける人間はたくさんいるのに、私は書けないんだろう。もう一つつらいのは、日記なんて寄せ集まっても何の意味もないということ。日記には1ミリの意味もない。意味ってなんだろう。私も誰かのこころに何かを刺したいのだろうか。

あー、小説のこと考えているとすべてが怖くなる。人と比べて自分にできないことはそれほどないから小説について考えるとしんどい、といつもまず思うけれど、それでいうなら、私は音楽もつくれないし、マカロンも伝統工芸品をつくることはできない。でも、音楽も、マカロンも、伝統工芸品も、つくれなくても全然つらくない。でも自分が小説を書けないのはつらい。書けないのがつらいだけじゃなくて、小説がたくさんあってそれらが競い合っているという事実もつらい。ほんとうになんでなのかがわからない。でも、やっぱり言葉は怖い。言葉に優劣がつくことを想像したら、それはほんとうに怖い。書いている事実自体に優劣がつくのは全然耐えられるけれど、こころと想像をあらわす言葉に優劣がつくことを想像したらこわすぎてふるえる。なんか虚しくなってくる。

全部かけている気がしない。もっと大切なことがある。私は小説を書きたい。もし書けたらどんなにいいだろうと思う。でも、その気持ちなんてどうでもいいぐらいに私は小説が書けない。致命的に書けない。試みるたびにかなり序盤で頭とこころが限界に達して無理になる。限界に達してというと言葉はいいけれど、多分実際はもっと最悪で、想像に飽きてしまうのだと思う。めんどくさいと思って、めんどくさいと思う自分も嫌になって、なんかぜんぶどうでもよくなる。いつまでたってもその先に行けない。

自分が小説を書けないことを認識するのはつらい。技術が足らない以前に、そもそも書きたいことすらないし、そこまで想像力があるわけでもないし、とか思うと、人間としての欠損を感じる。その欠損は自分にとって、そんな短所も含めて自分です!って開き直れるタイプの欠損じゃない。

世界を創りたかった。それで誰かのこころを刺すとかじゃなくて、ただ世界を創れたらよかった。めまぐるしいほどの感覚と感情を内包する眩しい世界を創りたかった。自分のなかには、眩しい感覚と感情の断片が思い出として残っているけれど、それのすべてを描きたい。それができたら、その世界の中の光はもはや自分固有のものではなく、自分を超越していると思う。もっと普遍的な眩しさに触れたい。でも、細部を突き詰めていくと、荒い想像では何も描けないことが分かるから、結局自分にはなにもできない。なにもできないと何度も書くことで、ほんとうに何もできないのだと自分に染み込ませていくしかない。すべて諦めて楽になりたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?