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『目印はユニオンジャック』

 この話は2019年1月にトラベラーズノートのウェブサイト「みんなのストーリー」に掲載された旅のストーリーです。現在も掲載されています。そのままここに掲載いたします。現在も「みんなのストーリー」に毎月一作旅の話を書いています。これは掲載第135作目です。

 毎回読んでくださるトラベラー各位がご存知の通り、私は結構なイギリス好きだ。イギリスに関する話を書く際はもちろん、それ以外でもイギリスに関することを検索エンジンで調べることが多い。

 「一を聞いて十を知る」という言葉がある。検索エンジンで何かを調べると、「一しか聞いていないのに千も教えてくれる」という膨大な選択肢を突きつけられて困惑することが多い。そんな中で「イギリスの焼菓子」というフレーズに目が留まった。

 焼菓子と聞いて真っ先に思い浮かぶのはクッキーだが、ケーキも焼菓子のひとつだと知った。ちなみにどら焼きも。菓子を使った言葉でフルーツのことを水菓子ということを知ったのは伊集院静さんの小説やエッセイだった。水菓子とは水羊羹のことだとずっと思っていたことをここに正直に書いておく。

 情報の洪水の中から掬い上げた「イギリスの焼菓子」のお店がいつまでも気になった。場所は勝手知ったるエリアの反対方面だった。しかし、そう簡単には訪れることはできない。なぜなら、基本的に週4日のみの営業、閉店時間前に完売してしまうことも珍しくない・・・というか、完売のため早仕舞いがほぼ通常というお店だからだ。平日に仕事帰りに寄るとなると営業時間を過ぎてしまうので無理。時間の融通が利く土曜日しかチャンスはない。

 初めてロンドンを訪れたのは学生の頃ヨーロッパをパックツアーで回ったときだった。パリからの到着が土曜日の夕方で日曜日は終日観光、月曜日には帰国というスケジュールだった。当時日曜日はほとんどの店が休みだった。観光客相手のお土産物屋とアメリカ資本のタワーレコードくらいしか開いてなくてガッカリしたものだった。ロック好きなのでカムデン・タウンも訪れたかったがその滞在スケジュールでは叶わなかった。訪れるのがなかなか難しい都内の「イギリスの焼菓子」のお店にそんなことを思い出した。

 まだまだ残暑が感じられたある10月の土曜日の午後に思い立って行ってみることにした。JRの御茶ノ水駅で総武線を降りて聖橋を目指した。ニコライ堂を背にして聖橋を渡り始めた。左手には改装が遅々として進んでいない印象を受ける工事中のJR御茶ノ水駅と御茶ノ水のビル群の狭間に後楽園遊園地のスカイフラワーが見える。右手には秋葉原のビル群の狭間に東京スカイツリーが見えた。千代田区から渡り始めた橋を渡り終えるとそこは文京区。右手には湯島聖堂がある。銀杏並木をしばらく歩くと本郷通りに出る。本郷通りを跨いて坂を下ると蔵前橋通りの清水坂下交差点に出る。交差点を渡ると清水坂下だ。ここからはスマートフォンの地図アプリに案内してもらった。

 蔵前橋通りから道を一本入ると大通りの喧騒が耳元から遠ざかった。いまでこそコンクリートの建物ではあるが、昔は建物の一階で商いをしていたのがうかがえる造りの家が結構あった。開店中を告げるお店の目印でもあるユニオンジャックが見えた。着いた。お店の外観はSNSやインターネットで見た紹介記事から描いていたイメージより少々こじんまりしていた。記事の写真で見たままの格好で女性店主が身なりからご近所さんと思われる方を接客していた。

 先客が店から出るのをしばらく待ってから店内に入った。焼菓子の甘い香りと清掃の行き届いたキッチンの香りがした。店主の肩越しに見えたキッチンは、かつての仕事で訪れていたら間違いなく満点を出したくらい清潔だった。限られたスペースを活かし、お菓子作りから接客まで全て一人で目を行き届かせて行うのに考え抜かれた作りになっていた。

 イギリス好きなのでいろいろとインターネットで調べていてこのお店に興味を持ったことを店主に告げた。パブ好きの酒飲みで甘党ではないのでケーキのことはよく分からないと正直に話して目の前に並んでいるケーキを説明してもらった。王室に昔から伝わるというヴィクトリアスポンジケーキ(以降ヴィクトリアスポンジ)に興味が湧いた。ちょうどリンゴの季節が始まった頃だったのでリンゴのケーキと一緒に買った。

 ケーキを包んでもらっている間にもイギリスを話題に話が弾んだ。店主は先客の対応中に外で待っていた私の靴がチラリと目に入り気になったと言った。履いていたのは爪先にユニオンジャックが施されているリーボックの白いスニーカーだった。そのときに着ていたヘソの辺りに「England」とプリントされている約30年着古しに着古したMotorheadのTシャツには反応はなかった。

 様々な焼菓子とともに紅茶も売られている。紅茶が並んでいる棚から少し離れたところに何度も読み返した様子がうかがえる洋書が並んでいた。尋ねると「イギリスの焼菓子」に関する本だった。オリジナルを再現する際にはもちろんだが、アレンジするにしてもオリジナルが分かっていないとできないので、手の届くところに置いていると言っていた。その答えにとても感心し、その答えが買ったケーキを一刻も早く食べたいと思わせた。店主はパブも好きとのことだった。話のきっかけにでもなればと持参していた「おとなの青春旅行」を一冊差し上げて店を辞した。

 興味が湧いたスポンジにイチゴジャムが挟んであるシンプルなヴィクトリアスポンジを帰宅後真っ先に食べてみた。美味いったらない。これはまた食べたくなると一口食べて思った。甘党ではない私が食べたくなるスイーツといえば都内某所の豆大福(店名に「堂」は付きません。そこのものは残念ながらまだいただいたことはないです。)とポルトガルのタルトだ。これにヴィクトリアスポンジが加わった。

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これがその「イギリスの焼菓子」のお店のヴィクトリアスポンジケーキです。美味しそうでしょ? 再び食べたいと思いお店を再訪したときはすでに完売。改めて訪れようとしたときにはその日の焼菓子完売で早仕舞い・・・を何度も経験しました。興味を持った方は是非お店を探し当ててください。

 料理に関しては残念ながら評価が芳しくないイギリスにシンプルでこんなに美味しいものがあるなんて知らなかった。少々調べてみたが、ヴィクトリアスポンジは歴史のあるケーキだった。1800年代後半にあるパーティーでヴィクトリア女王のために作られたケーキがこのケーキで、以来ヴィクトリア女王はアフタヌーンティーのときにスライスしたスポンジケーキを欠かさず楽しんだというのが名前の由来らしい。呼び方も ヴィクトリアサンドイッチとかヴィクトリアンケーキなどいくつかあるようだ。ヴィクトリア女王は日本風にいうならばエリザベス女王の「ひいひいおばあちゃん」に当たる。

 そういえば、コロネーションチキンの名前の由来も王室にちなんだものだった。現在でも長く愛されている食べものの名前が王室に由来しているのはとてもイギリスらしい。

 ヴィクトリアスポンジはシンブルで美味しい。同じくアフタヌーンティーのメニューにあり、シンプルで美味しいキュウリのフィンガーサンドイッチをふと思い出した。ビールとともに久しぶりに食べたくなった。

 朝食はイングリッシュ・フル・ブレックファストを食べ、昼はブリックレーンでベーグルのサンドイッチにする。具はソルトビーフかコロネーションチキンだ。お茶の時間や甘いものが欲しくなったときにはヴィクトリアスポンジかLiON Barだ。夜はパブでフィッシュ&チップスにビールとイギリスでの食事の軸が出来上がった。イギリスで食べものの冒険をしてしくじってもこれで空腹のままでいる心配がなくなった。

 今回は本文を書き始めてもタイトルが決まらなかった。このタイトルに決めるまで迷いに迷った。候補となったタイトルは、①『知らなかった・・・2』(1に当たるものはコロネーションチキンの話)、②『これも知らなかった・・・』、③『甘党ではないけれど』、④『売切御免』、⑤『完売御礼』、⑥『はためくユニオンジャック』などだ。ここまで読んでいただき、さらにこの「イギリスの焼菓子」のお店を訪れていただけば、どれもこの話のタイトルになり得たのではと思っていただけると思う。トラベラー各位で興味を持った方には出発前から気になっていたお店を旅先で探す感覚でこのお店に是非辿り着いていただきたいと思う。

 過日のコロネーションチキンもそうだったが、大好きなイギリスにはまだまだ知らないものが本当にたくさんあると思った。2019年は歴史がある未知のイギリスものにいくつ出逢えるだろう。今年もトラベラー各位に嬉しい発見がありますように。

追記:

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1. ヴィクトリアスポンジとともに買ったリンゴのケーキももちろん美味しかったです。旬のフルーツを使ったケーキも店頭に並ぶそうなので、お好きな方は要チェックです。写真はヴィクトリアスポンジのクリスマス限定ヴァージョンの「ベリー&ベリー・ヴィクトリア」です。もちろんこれも美味しくいただきました。

2. 甘いものを食べる際は必ずコーヒーでほぼ麻生珈琲さんのイタリアンローストです。今回再びヴィクトリアスポンジをいただく際には、お店で売られていて気になっていた紅茶のEnglish Breakfastを試してみました。紅茶は久々でした。どちらも合いますね。焼菓子一つで「お茶する」ことがここまで充実するとは・・・。新たな発見でした。

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3. 本文で触れたコロネーションチキンに関しては「知らなかった・・・」というタイトルで書いています。未読の方はどうぞご笑覧ください。イングリッシュ・フル・ブレックファストに関しては「朝ごはん」、ベーグルに関しては「3,000円のベーグル」、LiON Barに関しては「命綱」、フィッシュ&チップスに関しては「旅先で食べたもの・8」をご笑覧ください。

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「おとなの青春旅行」講談社現代新書                「パブをはしごして、青春のビールをーイギリス・ロンドン」を寄稿


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