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【読書メモ】中島敦「李陵」


中島敦「李陵」を読んだ。以前は「弟子」や「悟浄出世」の方が好きだったけれど、理不尽、変節、ライフワークといった、「生きることに関わってくる業」の描写が今まで読んだ時よりもずっと訴えかけてきた。



   この物語の中で、「史記」を著した司馬遷が主要な人物の一人として描かれる。

   彼の「書くこと」に対する気迫、ひととしての誇りのすべてを腐蝕させる宮刑に処されたのちも、なお静かに燃え上がる存在証明としての歴史執筆への動機付けを、中島敦は簡潔に、無駄なく、それでいて克明に切り出している。

どういう点で在来の史書があきたらぬかは、彼自身でも自ら欲するところを書上げてみてはじめて判然する底のものと思われた。彼の胸中にあるモヤモヤと鬱積したものを書き現わすことの要求のほうが、在来の史書に対する批判より先に立った。いや、彼の批判は、自ら新しいものを創るという形でしか現われないのである。
以前の論客司馬遷は、一切口を開かずなった。笑うことも怒ることもない。しかし、けっして悄然たる姿ではなかった。むしろ、何か悪霊にでも取り憑つかれているようなすさまじさを、人々は緘黙せる彼の風貌の中に見て取った。夜眠る時間をも惜しんで彼は仕事をつづけた。一刻も早く仕事を完成し、そのうえで早く自殺の自由を得たいとあせっているもののように、家人らには思われた。
 凄惨な努力を一年ばかり続けたのち、ようやく、生きることの歓びを失いつくしたのちもなお表現することの歓びだけは生残りうるものだということを、彼は発見した。


   世間の流れに追随してことばの礫を投げることは容易い。いっぽう、自分のやり方で自信を持って世界観を提示すること、表現することは正解の無い作業であるし、時に苦しい。けれど、そういうやり方でしかどん底にいる自分を鼓舞し、浮揚させ、癒すことができない書き手がいる。「李陵」に描かれる司馬遷がそうだし、中島敦その人もそうだったのではないか。愚直なまでに漢学の素養に忠実であろうとした彼自身のやり方を、司馬遷に重ねているように感じられてならなかった。

  ほんとうに追い込まれた時、わたし自身はどのようなやり方でことばと向き合い、何を発そうとするだろうか。

   耐えがたい出来事に襲われたとき、生活のために、でなく、「生きるために」書く境地に辿り着けるだろうか。

 

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「中島敦展」/富山県高志の国文学館