【園館訪問ルポ】異能の天才、近藤典生博士の足跡を追いかけて――③熱川バナナワニ園(静岡県賀茂郡東伊豆町)
静岡県賀茂郡東伊豆町。伊豆急行伊豆熱川駅から歩いてすぐ、伊豆大島をのぞむ温暖な街で60年以上の長きにわたり営まれてきたこの園の名前は、いちど聞いたらだれもが忘れられないでしょう。熱川バナナワニ園。その名のとおり、温泉が湧く伊豆半島の地質を生かし、多数のワニとバナナを始めとする熱帯植物の展示に力点が置かれた施設です。
しかし、この園の魅力は「バナナ」と「ワニ」に限定されているのではありません。広義の「農」に光を当てる姿勢は進化生物学研究所と近藤典生博士が構想したバイオパークの思想とも共振し、そればかりか近藤博士が主導したアマゾン調査隊の活躍を伝えるアマゾンマナティーが2021年現在も息づく園なのです。
近藤博士が直接設計に関与した施設ではありませんが、その思想の影響を強く受けた園としてここでは紹介したいと思います。
アマゾンマナティーの「じゅんと」、御歳推定58歳。この地にやってきて52年。現在日本で暮らす唯一のアマゾンマナティーです。極めて高齢ですが、元気に泳いでいました。
訪問したこの日は週に一度の水槽掃除。あわせて飼育員さんがじゅんとをマッサージし、身体の汚れを落としてあげます。マッサージが終わると水槽は再び温水で満たされます。
何も知らなければ水が浅くなっていて動きづらそうでかわいそう、と思ってしまうかも知れませんが、このケアの時間が長寿の秘訣なのかも知れません。
「じゅんと」が日本にやってきたのは1969年。この年、近藤典生博士は読売新聞や日本テレビの協力を得てアマゾン調査隊を結成。この遠征は近藤博士がカピバラの魅力を知り、日本に広く紹介するきっかけになった旅でもありました。まだワシントン条約に日本が批准する前の時代のことです。
アマゾン調査
マナティの生け捕りを主眼に読売新聞社の後援を得て1969年に実施。個体の輸送はパンアメリカン航空(パンナム)をチャーターして行われた。これらは近藤の個人的な知己によるものという。探検隊には日本テレビ「驚異の世界」の撮影隊が同行しており、後に放映されている。また、カピバラを見出したのもこの遠征による。ただし、マナティの生け捕りはアマゾン川ではなく、ブラジルの北に位置するスリナム国のナニメール Nanni Meer の沼地で行われた。捕獲した4頭のマナティは神奈川県川崎市のよみうりランド水
族館で飼育された。
「じゅんと」はコロンビアで捕獲されアメリカのマイアミで暮らしたのち日本へやってきたと紹介されているため、よみうりランドのマナティーたちとは別経路で来日したようです。しかし、東京農業大学の別の資料では「近藤典生が調達した個体」として明示的に示されています。
(なお、よみうりランドで飼育されたというアマゾンマナティーの歴史について、私は多くを知りません。2000年に同館が閉館してしまった後の消息については、ここで記述することを差し控えます。)
「本園」から「分園」の資料館には、様々な果実の液浸標本が並んでいます。そこに印象的なことばが掲げられていました。
農業の歴史はバナナから始まったといわれ、古代の人類は、種子のある、野生のバナナから、長い年月をかけ、今日のバナナをつくりあげました。
ヒトの営み――「農」の象徴として、ここではバナナが扱われていることが読み取れました。実際に園内のフルーツパーラーでは植物園で収穫されたバナナやパパイヤが使用されており、「農」が実践されています。
「農」への注目はバナナに留まりません。シダ植物、食虫植物をはじめとする特色ある植物のコレクションは質・量とも申し分なく、スイレンやランといった多様な栽培種の紹介文では世界の植物園や植物学者たちの成果についても触れられ、「育種」の歴史の中でうつくしい花たちが生み出されていったことが示されています。
「種無しスイカ」の研究など、交配による植物の品種の分化も近藤博士の主要研究分野のひとつでした。植物の研究史とともに美しさを伝える展示思想も、近藤博士と相通ずるものがあります。
こうした「育種」への成果を開園時から掲げていたことは、日本ではここだけにしかいないレッサーパンダの亜種、ニシレッサーパンダの導入と現在までに至る飼育繁殖の継続にも結実しています。
屋外の大放飼場には巨大な樹がそびえ立ち、樹上生活者としてのレッサーパンダの魅力を余すところなく伝えてくれます。見上げていると首が痛くなりましたが、この高い木の上が本来の彼らの暮らす場所だと感じさせるものがありました。
動植物を横断して魅力を紹介している熱川バナナワニ園も、新型感染症拡大に伴う収益減により大きな影響を受けたことを訴えています。
ここに息づく「農」と「育種」の思想が今後も守られ続けていくことを願わずにはいられないのでした。