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【備忘録】「ひら」のこと。

 



「ひら」が入院した。実家にいる両親から知らせがあった。もう17歳だ。

   このような社会情勢のなか、会いに行くことはかなわない。

    私は「ひら」の良き飼い主ではなかった。「ひら」がどう思っているかは分からないままだが、私は私を「ひら」の「飼い主」として胸を張ることはまったくできない。


  「ペット」についての言説を見聞きするとき、どうしてかいつも胸がちくちくするのは、私自身もまた責めを受けるべき「無責任な飼い主」のひとりであったに違いない、という悔恨に襲われるからかもしれない。


   「ひら」は雄のミニチュア・ダックスフントで、日韓ワールドカップがあった年に私の実家へやってきた。

   当時私の実家には、カワニシさん(仮名)という親族のひとりがしきりに出入りしていた。カワニシさんは整復師を生業としていて、子どもの目にも羽振り良く見えた。たまに週末家に上がり込んでは、豪勢にライチだの、ドリアンだの、ヘボ飯(蜂の子を炊き込んだごはん)だの、ぼたん鍋だの、くじらの刺身だのを私たちに食べさせた。

   そのカワニシさんがある日子犬を連れてきたのだった。突然ちいさなケージが玄関に置かれていて、中にミニチュア・ダックスフントがいた。小学校から帰った私は戸惑った。カワニシさんは赤黒い顔でにんまり笑みを浮かべて言った。「このあいだ犬飼いたいか、って聞いたろ、うん、って言ったよな。連れてきてやったぞ、ほら」

   どうやら私が子犬をねだったことになっているらしかった。そういえば前に家にカワニシさんが来た時、犬の話をしていたかもしれない。けれど、今すぐ飼いたい、と具体的な話をした記憶はなかった。私は混乱したが、否定も肯定もできなかった。現に目の前に子犬がいるのだ!

   こうして私たちはこのミニチュア・ダックスフントと暮らし始めた。耳がひらひらしているから、という理由で「ひらみみ」と名付けたが、長いのですぐに「ひら」になった。

    「ひら」をよく家の周りの道路や河川敷、田んぼに散歩に連れていった。近所に広い公園はなかったが、畑やあぜ道、広い河原はそこここにあった。「ひら」が1歳になるまでは、ドッグフードを犬用の粉末ミルクでふやかして与えた。犬用粉末ミルクはむっとするようなにおいだったが、「ひら」はおいしそうに食べるのだった。

    カワニシさんはその後も時々私の実家に来ることがあった。カワニシさん一家が来る日はたいてい彼らと昼食の卓を囲んでいた。カワニシさんは玄関の「ひら」を見ると満足気な顔をしていた。そして時々チーズやオードブルの照り焼きチキンを与えていた。いま思えば、なんで止めなかったのだろう、と自分を恥じている。人間用に塩辛く味付けされたチーズや照り焼きチキンがイヌの、それも子犬の身体には毒だと、いくら幼い私でも分かっていたはずなのに。

    世間というものを知らなかった小学生の私にはなぜカワニシさんが豪奢な贈り物を次々持ってくるかは謎だったし、今でも何か裏の意図があったのかよく分からない。そういえば、ある時カワニシさんは大相撲の関取にも施術したことがあるんだ、と豪語していた。その関取がある事件に絡んで角界を追放された頃に前後して、カワニシさんは私の実家に来なくなった。

    私の家族が当時からカワニシさんのことをあまりよく思っていなかったのを知ったのは、ずっとあと、カワニシさんが健康を害し程なくして亡くなった後のことだった。



    「ひら」は、1歳になる頃には吠え癖がついてしまった。もとより、イヌのしつけをどうしたらいいか、私も家族も十分な知識や心構えが足りていなかったし、調べるだけの精神的な余力にも欠けていた。「ひら」が吠えない相手はわたしの家族とたまに来るカワニシさんだけだった。その他の親族や郵便配達員、近所の子どもたちに至るまで、みな「ひら」の吠える声を聞いた。

    幼かった弟はよく吠える「ひら」を怖がり、「ひら」もそんな弟を下に見ているようだった。いちど「ひら」が弟の足首に噛みつこうとしたことがあり、弟は現在に至るまですっかり犬嫌いになってしまった。

   「ひら」はもはや玄関では飼われなくなった。お客が来るたび吠えていたのではびっくりさせてしまうからだ。晴れの日はケージごと裏の畑の柿の木の下に。雨が降る日はガレージに。そして次第に、ガレージに置かれている祖父の軽トラックに繋留されて日々を過ごすことが多くなった。

    私も小学生くらいまではときどき身体を洗ったり、毎日の食事の量をはかったり、人並みに「ひら」の世話をしていたが、中学校に入り、高校に進み、次第に日々が忙しくなるにつれて、「ひら」を構わなくなった。

    やがて散歩や食事の計量といった、世話の一番大変な部分は祖父が担うようになった。祖父はほんとうによく「ひら」の面倒を見てくれた。このことに関して、私は祖父にただただ感謝することしかできない。


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2019年。84歳の祖父と17歳の「ひら」。




  私がふたたび「ひら」と意識して向き合ったのは、進学・就職の過程で地元を離れ、時たま帰省するようになってからだった。 近くにいる時はろくに世話をせずに、離れてたまに会うようになってはじめて向き合う気になるなんて、本当にひどい奴だ、と自分でも思う。「ひら」の世話はまだ祖父を中心に行われていた。

   「ひら」も年齢を重ね、もうそんなに吠えなくなっていた。風邪をひいたらいけない、と洗われなくなって、目やにが止まらなくなったり、毛並みが荒れたりといった変化はあった。しかし、軒先に敷かれたゴザの上でまどろんでいる時の「ひら」の姿はよく覚えている。ゴザも、祖父が古い納屋から出してきたものだった。

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2018年。ゴザの上でまどろむ「ひら」。



   「ひら」は2019年にいちど肝臓を患って生死をさまよった。夏に実家に帰省した折、もう次に帰る時は「ひら」には会えないかも知れないよ、と祖父に言われた。しかし、「ひら」は年越しまで生きていてくれた。もうすっかり年老いた「ひら」と再会した時、自分は「ひら」にいったい何をしてあげられたんだろう、と、自責の念がふつふつと湧き上がってきた。


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2020年、元旦の「ひら」。


  現在の私は賃貸住宅に暮らしており、また将来の長距離の転勤も有り得ることから、イヌをはじめ伴侶動物を飼育することはまったく考えていない。

   たとえ、もし仮にペットを飼育できる環境を手に入れたとしても、私は自分自身に生き物の世話をする資格はないとみなしている。

   特に覚悟もなく、カワニシさんに聞かれるがままに「イヌが欲しい!」と言ってしまった幼い私。

    そうやって家に来た「ひら」に、イヌらしい環境をじゅうぶん与え、秀でた性格を引き出すことが出来たとは到底言いがたい私。

   定量化の難しい「愛情の有無」という話ではなく、総量としての「世話」の多くを祖父に任せきりにした私。




    「ひら」、ごめんなさい。





     動物園や水族館の環境エンリッチメント、動物福祉、云々……という議論にこれまで私は強く関心を抱いてきたが、ひょっとしたらそれすら、自らの犯した「身近な飼育」に関するあやまちから目を背けるための、ある種の代償行為であったのかもしれない、とさえ感じる。




   「ひら」に対する感情を整理し切れない限り私には、「動物福祉」を語る資格は無い、とまで考えています。





いつか、きっと、必ず、「おうち」へおかえり、「ひら」。