いのちの箱舟#3-3-1 【新訳 動物園が消える日】「鵺」①


※ この作品はフィクションです。実在する人物・団体・事件等とは、一切関係がありません。






 月末の金曜日。多くの人で賑わう大通りから少し離れた裏路地に、一軒だけぽつんと創作料亭があった。木目調のあたたかみがある看板には、「NUE」と店名が記されていた。
 ぼんやりと明かりが灯る障子で仕切られた掘りごたつの個室の中で、岬は痩せぎすの男と向き合っていた。男は背が高く、頬がこけている。痩せている、というより、憔悴している、という表現が近いかも知れない。岬の父、牟田大延(むた・ひろのぶ)だった。
 店員が手際よくとらふぐの刺身を配膳し、音を立てずに障子を閉めた。冷たい水で締められた刺身は透明に透き通っている。しかし、岬は真一文字に口を結んだまま微動だにしなかった。
 「食べなさい」牟田が言った。「俺の気持ちだ。何も遠慮することはない」
 「……遠慮なんかじゃない」岬が重く閉じた口を開いた。「いったい何のつもりで私だけ呼び出したの。もうずっと、何の音沙汰も無かったじゃない。通帳に振り込まれるお金に紐づいたカタカナの名前以外は」
 牟田は表情を変えなかった。かつて牟田は、妻と娘である岬を家で殴っていた。仕事で鬱憤を溜め、発散することも出来ずに、酒に逃げ、家族やモノに当たり散らした。岬は学校に通えなくなり、中学生になった頃に母親と共に名古屋の国立動物園内に開設されていた「ふれあいシェルター」へ「避難」した。岬が響と知り合い親しくなったのも、シェルターでの経験を通じてだ。
 牟田は家庭内暴力の事実をひた隠しにしながら役人の世界で昇進を続けていった。初めて室長になった環境省・希少動植物保護管理推進室で国立動物園の経営合理化を力強く推進し、動物園行政の世界では一目置かれるようにもなっていた。
 牟田と岬の母親、南紀世(みなみ・のりよ)との協議離婚は岬が高校に進学した頃にようやく成立した。多額の慰謝料を牟田は支払い続けることになり、それらは岬の進学費用にもなった。協議離婚の前も、後にも、牟田から謝罪の言葉は無かった。
 その牟田が「すまなかった」としたためた手紙を、岬は響たちとフィールドワークを行った日の晩に受け取っていた。下宿の住所をどこで知ったのか、直接郵便受けに入っていた。自分の今後について伝えたいことと、お願いしたいことがある。自分は父親失格だったが、どうしても話がしたいのだという。初めてのことだった。岬は母親の紀世とともに会うのでは駄目かと提案したが、岬とだけ話がしたいのだという。
 「もう最後に会った時を私は覚えていない。あなたの顔も忘れてしまっていたわ。何が目的なの」岬は語調を強めた。店員が鱚のてんぷらを運んできたが、すぐにきまり悪そうに部屋を後にしていった。
 牟田は無表情のまま大衆週刊誌を机の上に置いた。電子化の時代でも紙の週刊誌は需要があるようだ。どぎつい文句が並ぶ見出しと表紙を飾るきわどいグラビアに、岬は顔をしかめる。見出しの中に、こんな文言が躍っていた。「更迭された『動物園改革の鬼』にささやかれるパワハラ&DV疑惑!?」
 岬は週刊誌を開いた。記事には、大写しにされた牟田の顔とともに、「動物たちを慈しむ園の改善に力を注いでいた『動物園改革の鬼』牟田前室長。実の家族や部下たちには、やさしさのかけらもない『鬼畜』だった」と扇情的な見出しが並んでいる。岬と母親が受けてきた家庭内暴力の詳細については触れられていなかったが、協議離婚に至った背景のことは言及されている。また、理不尽な叱責や暴力で職場を去った部下の証言も生々しく収められていた。
 牟田はそっと記事を指さして、口を開いた。声が震えていた。「……週刊誌にこんな記事が掲載された。更迭と書かれているが、半分正解で、半分間違いだ。この間までいた内閣官房国立博物館相当施設再編準備室はぁ、解散になった。国立動物園・水族館の再編事業は来年の三月で完了する見通しだからな。更迭ではなく、事業が終わったことによるぅ、お役御免って所だ」そんな話どうでもいい、と岬は思ったが、牟田の長口上は続いた。「環境保護政策関連会社への出向ということで、もう本省のようにバタバタしなくてもいい。それでも左遷という風には世間に映るだろうなぁ。こんな記事を書かれるのは不本意極まりないんだが」牟田は箸を持ち、刺身を食べ始めた。「この週刊誌の記者についてぇ、岬は何か知らないか?取材が来たりは」
 岬はひとくち鱚の天ぷらに手を付けた。「こんな記事、知らない。何なら今初めて見たわ。職場のことは知らないけれど、私たちの親子関係について間違ったことは何も書かれていないと思う。私を疑っているの?調査のために呼びつけたの?」
「いや、そういうつもりはないんだぁ。もし何か知っていたらと思って聞いただけだ」牟田は口もとを紙ナプキンで拭った。どこまでも、暴力については認めようとしなかった。「この記事はヨタ話だが、時間が出来たことは事実だ。記事に書かれているようなことも、確かにあったかも知れない。忙殺されすぎていて覚えていないがな。自分のこれまでを振り返って、特に岬には辛い思いをさせてしまったと悔いている。だからまずは謝りたい」声が震えている。実の娘に、長身の初老の男が深々と頭を下げた。
 岬は微動だにしなかった。しばらくして、口を開いた。「あのね、遅いよ。遅すぎるよ。私の子ども時代を返してよ。立派な親じゃなくても良かったからさ、私たちとちゃんと対等に向き合ってほしかったんだよ」岬はゆっくりと額にかかっていた長い髪を掻きあげた。青黒いあざが前髪の付け根に広がっている。「覚えてないかも知れないけれど、これ、あなたにやられたんだよ。酒に酔って、テレビのリモコンの角で思いっきり、ごんって。痛かったなぁ」
「本当にぃ、愚かだった。すまない。悪かった」
「……あのさぁ、知っている謝罪のことばを通り一遍並べているだけでしょ。私は色々な幸運が重なってちゃんと自分を持てているし、あなたが自信を持って進めていた仕事を外れたことについては同情もするけれど、あなたが私たちを傷つけた過去は変わらない」
牟田は頭を垂れたまま、机の上の週刊誌を叩いた。「この記事が出てからぁ、記者や義憤を抱いた暇人たちに追われているんだ。おかげでぇ、安心して暮らすことすらできやしない。今までひどいことをしてきたのは謝る。もう手を挙げたりもしない。酒だってここ数年一滴も飲んでいない。お前のお母さんを探してはいけないとぉ、協議をした時に約束したが、ひょんなことでお前の連絡先を知ったのでぇ、どうかお願いしたいんだ。落ち着くまで、俺をかくまってくれないか。後生だ」牟田は口癖である間延びした語調で絞り出すように言った。
 岬は牟田の頭を支え、まっすぐ正面を向かせて、目を見た。牟田は生気を失ったような目をしている。他の全てをかなぐり捨ててまで打ち込んだ仕事から離れ、自分自身ががらんどうになっていたことに気付いた人間特有の空疎な目だ。岬は改めて、強い語調で言った。
 「お母さんと私はあなたから逃げるために初めて踏んだ名古屋の土地で、同じお願いを見知らぬ人たちに何度も何度も繰り返したんだよ。さっきも言ったけど、遅すぎるよ。私以外に頼れる人はいないの?職場の人、仕事で縁があった人は?友達は誰も居ないの?」
 牟田は言葉を失っていた。眼をぐろぐろさせて考えているようだが、思い当たらなかったらしい。
「……なんというか、本当に可哀想な人だね」店員がシカとイノシシの肉が入った大きな鍋と骨の付いた鳥もも肉の照り焼きを持ってきたが、岬は財布を出し、上着を着た。
「私はもう私の人生を歩んでる。あなたとは関係がない。あなたの思う通りにコントロールしようとしないで。野生動物たちを完全に意のままに制御できないのと同じ。あなたも人の上に立って散々無理なことを言ったりやったりしてきたんでしょ?私とお母さんがしたのと同じ苦労をしてみたらいいと思うよ」
「待ってくれ、岬ぃ、最後まで話を聞いてくれ」牟田のかすれた声が響いたが、岬は振り向かなかった。机に三千円だけを置き、自分をかつて傷つけ苦しめた父親の前から去った。
 外は土砂降りだった。無性に姫央に会いたくなった。電話を掛けた。ここではない、どこか遠くに行きたくなった。