学習という行為

 私は教育の分野に日々従事している。なぜこのような選択をしたかというと、教育(というよりも学び)がもっとも人間の原始的な行為の一つだからである。現代は細分化の時代であり、あらゆるセクターがそれぞれ機能しあうことで社会が回っている。この状況をぐるりと見渡したとき、自分が直視し続けられる(貢献し続けられる)ものとして教育(学び)という行為に接することを選んだのである。

 むかし「歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化」という本を読んでいたとき、そこで初めて「人類の進化の過程と、個体としての人間の成長過程の類似」という考えに触れた。それは身体的にも、精神的にも類似しているのではないかと思える。科学的に見たら根拠はないのかもしれないけど、人類の進化の先端に生まれ出た一人の人間が、どういうわけか太古から人類が歩んできた軌跡を辿るように成長していくということは、考えただけでも心が踊る。

 そして、その局面にあるのは学びであり、知らなかったことを知る、つまり何かを獲得することで、それまでの個体は変容していく。だが、それは必ずしもいいことだけではない。例えば、とても感動する映画を初めて見たとき、その感動をもう一度味わいたいと思っても、私たちはもう二度と「その映画を見る前の自分」に戻ることはできない。このような情報の不可逆性が一因となり、年齢とともに心の躍動を失っていくのは容易に想像できる。

 先日、地球が自転していることを初めて知った子が、目を丸くしていた。とても信じられないと言うので、昔の人もとても信じられないと思う人ばかりだったそうだと伝える。その子の疑問は、じゃあなぜ、私たちは立っていられるのかと次々と移っていく。その子の頭の中では15世紀ごろのパラダイムシフトが今まさに起こっているのであり、これからの世界は異なって見えるようになるだろう。このような発達(進化)の疑似体験を日々目の当たりにできるということは、とても素敵なことだと思う。

 ただし、地球が本当に自転しているのか、まだ私はこの目で観察していない。いつか、私もその子も、「あぁ、ほんとうだ」と言える日が来るかもしれない。人類の進歩と、情報の不可逆性の間で、やはり私たちは今を生きているんだなあと感心する。

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