歩いてみると

 最近、通勤手段を電車から徒歩に変えた。朝の電車に乗ることに気が向かないというのが第一の原因だが、なんとなく「歩く」ということ自体に関心があるといってもいい。

 電車を主な手段として通勤すると、歩くことは従属的な行為になる。駅に向かうため、電車を乗り換えるため、改札に向かうためと、隙間のような行為である。すると当然、求められるのは最短・最速であることだ。とはいっても、すべての人がそれを目指してしまうと手に負えなくなるから、最大公約数的な「流れ」のようなものができあがる。
 一方、家から目的地までを徒歩にすると、歩く行為が主体的なものになる。速さは自在に変えられ、遅くなっても取り返しがつく。距離と時間と身体が結びつく感覚だ。この感覚を倍増し、より実感を得られるものがランニングブームなのだろうと思うが、私は歩行以上の運動を毎朝するほどのバイタリティは持っていない。

 さらに、歩くことは都市を思い出させてくれる。都市を想像したとき、私は地下鉄マップを想像する。だがもはや、「この駅とこの駅は何駅あり、距離にして何キロで」というものではく、「渋谷の方へ行くなら副都心線」といったように、さらに抽象化され、路線と駅名としての断続的な都市として考えてしまっている。
 家から職場まで行くのに、幹線道路を越える。幹線道路に向かって垂直方向に移動をするにつれ、街の様相が変わることに気付く。住宅街、集合住宅、コンビニ、商店と、グラデーションのように連続的な街であることを体感している。道を一本入っただけでも、ここがこの国の首都だと思えないぐらい静かになるときもある。

 先日、帰り道にいつもとは違う道に入ってみた。向かう方角はなんとなく合っているだろうと、頭の中で想像して歩き進んでみたが、自分が方角に疎いということを思い出したのは30分も歩き回った後だった。自分の想像していた住宅地の何倍も広く、大通りからいつの間にか人しか通れない道にいる。目の前には予想していない景観が広がっている。これは、いつもの道路に戻らないと家にたどり着けないと考え、家を目指すのではなく家につながるための道を目指した。
 ようやくいつものコースに出て1時間も余分に歩いたのだが、何も損をした気分にならなかったのは、それが従属的な行為ではなかったからだろう。

 時間と距離と少しの疲労を感じ、頭の中の都市を少しずつぬり変えながら、また今日も歩いてみようと思う。

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