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私はここにいます、あなたは

ふ、と思ったときに連絡を取る人がいる。少しやり取りをしたのちに、また互いの人生に戻っていく。密な交流である必要はない。そこにいる、ということが分かればいい。
「いますか」「います、いますね」「います、それでは」というのをもう少し自然な会話の形にして、光をチカチカさせて伝えている感覚がある(船とかで見るあの光のやり取りを発光信号というらしい)。

距離があるほうが言いやすいことというのは、それなりにある。例えば私がカウンセリングの中で扱っていることは、カウンセラーの先生が仕事として私の話を聞いてくれるからこそ話すことができる。お金を払って話を聞いてくれる第三者、しかも私専属ではない。この距離が崩れたら、私は何も話せなくなる。

それと似たようなもので、この人は私の悩みを負わないだろうし、私もその人の悩みは負わない、というような距離がある人にだけこぼせることがある。距離があるというのは、悪いことではない。この距離で話されることは、多分大体は解決を求めている悩みではないと思うし、そもそもが悩みですらないのかもしれない。悩みとして受け取られてしまうかもしれないようなことを、そうではなく、ただあるものとして話したいときがあって、そういうときは、ある程度距離があったほうが上手くいく気がする。

「ああ、それ分かる、あるよね〜」ぐらいの。「あるよね、困っちゃうよね、仕方ないよね〜」ぐらいのコミュニケーションのほうが心地よいタイミングというのがある。

自己責任論に回収されてしまうのは嫌なのだけど、なんというか、私がこの選択をしたから私は今ここにいる、誰のせいでもなく私が選んだ、みたいな自意識が結構ある。そう意識しないと、ここまで生きてこられなかったし、ただでさえ自己肯定感が低いのに、あそこであの選択をしたのは間違いだったみたいなことを自分自身で思ってしまったら、そもそも私は生まれてきたことが間違っていたのだ、というところに簡単に帰結する。何度もやったので知っている。

私の面倒に最後まで付き合うのは私なので、私は私の責任を負っていると思っている。環境に助けられているところはもちろん沢山あるのだけど、例えば自分で自分を殺さないようにするとか、そういうところの責任は私が負っている。これは誰も負えないし、自分も負うよと簡単に言う人は信用できない。こっちは何年私と付き合ってると思ってるんだ、それでもこんなに大変なのに、みたいに思ってしまうから。だから「悲しいことは半分に」みたいな概念はうらやましさもあるけど、それは私には導入できないなと思ってるし、そのことで絶望にくれることもない。そういうものなので。

だから、「あるよね、困っちゃうよね、仕方ないよね〜」ぐらいのコミュニケーションをたまに取りたくなる。それ以上でもそれ以下でもない距離で。一緒に頑張ろうは近すぎるから、まあ各々やっていくしかないよね、チカチカ、みたいな。

爆笑問題の太田さんが好きだと言っていたので読んだ『タイタンの妖女』に出てくる、ハーモニウムという生物はテレパシー能力を持つが、メッセージは2つしかない。
「ボクハ ココニイル ココニイル ココニイル」
「キミガソコニイテ ヨカッタ ヨカッタ ヨカッタ」

私はたまにハーモニウムになりたくなる。

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