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冨岡義勇の孤独


桜坂洋の『All You Need Is Kill』で何度も死をリセットして生きる主人公キリヤを東浩紀は、キャラクターでありながら、それを俯瞰的に見るゲームプレーヤーの視点を同時に持つことで、「孤独」であると評した。

キリヤはたった1日の出来事を繰り返して再生することで、他のキャラクターが驚くほど彼らの生い立ちを詳細に知りつつも、そのプレーヤーであるキャラクターとは常に短い一日の一回限りの邂逅にすぎないため、キリヤの孤独を知りようがない。

この構造で思い出すのは、漫画『鬼滅の刃』において、お館さまである産屋敷が鬼殺隊の一人一人の名前を記憶しているが、死にゆく隊士からすればお館さまとのつながりは一回限りでしかないことに似ている。

柱たちは鬼滅の刃において、皆それぞれの独特の生い立ちだけでなく、その特殊な経歴に相応しい特別な能力を持っているが故に柱になった。時任無一郎の天才は、日の呼吸の始まりの剣士の血脈であるし、不死川実弥は鬼が酔う稀血を持ち、煉獄杏寿郎は炎の柱の家系、伊黒小芭内も鬼に取り入った特殊な家に育ち、胡蝶しのぶは化学の知識や柱の姉の存在、悲鳴嶼行冥や甘露寺蜜璃はその体格と体質、宇髄天元は忍びの家系。だが冨岡義勇だけは出自が不明だ。

冨岡義勇には、炭治郎と比較しても、その独自性に唯一のものがない。彼は最終選別で死んだ錆兎と真菰に対して負い目を感じ、自分にはその資格がない、という想いを持っている。つまり、能力的には他の柱たちと比べると特殊なものがない。

だからかもしれないが、彼は自らが水柱ではない、とまで言い切る。

お館さまも、義勇について何かを語らない。お館さまからすれば、柱でさえキャラクターに過ぎない。つまり鬼の始祖鬼舞辻無惨を倒さなければクリアできないプレーヤー視点に立てば、一人一人のキャラクターに過ぎないからだ。

産屋敷は確かに夭折する家系だが、死を恐れているという感じはない。彼はAll You Need Is Killの主人公のようにキリヤのようにまるで転生しながら過去の記憶を持つように感じられる。「鬼殺隊において私は重要ではない」と産屋敷は言う。私はただの一キャラクターに過ぎない、と言う意味なら納得できる。死んでもまた代わりはいる。それを引き継いでいくのが使命だと。

ただしこの長く続く使命を意識するということ視点が、産屋敷がAll You Need Is Killのキリヤと似させるのだ。つまりキャラクターでありながら、繰り返し生きる産屋敷家の伝統からすれば鬼舞辻無惨を倒すための「プレーヤー」視点を共有する。産屋敷は何度も生をリセットしながら、無惨を倒すまで繰り返しているのだ。

取り替えが効く、キャラの一人に過ぎない、という感覚は、炭治郎の竈門家にも通じるものがある。炭治郎は主人公としては唯一だが、彼の竈門家の子孫としての立場は産屋敷と同様に日の呼吸と耳飾りを継承することにあったからだ。そして産屋敷のように彼は祖先の記憶を引き継いで夢で見て引き継いでいる。

その意味で、死とは鬼殺隊において鬼舞辻を倒さない限り避けられない現実ではあり、その悲惨な歴史の背景がありつつも、日常的である。ラスボスである無惨を倒さない限りこのプレーは終わらない。鬼殺隊の個々の死が軽く扱われているように見えるとしたら、これが原因だといえる。最終の目標達成から見ると、死は絶対的というより相対的で抽象的だ。それは戦争における死者数のような量と変わらない。

産屋敷はそのような圧倒的な数の暴力があることを意識しているため、ひとりひとりの隊士を記憶するのだ。彼のプレーヤー視点から唯一できることであり、その個々の死を、つまり生き様の実存を救い出すためだ。

冨岡義勇は、その意味でより明確に、こうだったかもしれない、という生の選択肢を示す鬼殺隊のメンバーだ。

例えば無限列車編で、炭治郎が見る夢にも「こうだったかもしれない炭治郎の家族」が出てくる。炭治郎は主人公のため特殊な設定にはあるが、その家系の他の子孫たちのように炭焼きで一生を終えていたかもしれない、という選択肢があったことが示される。

義勇は、最終選別で死んだかもしれない、それは錆兎が生き残ったかもしれない、という可能性と重ね合わされている。読者の立場では、炭治郎と義勇の共通点は、この最終選別で生き残ったかもしれない錆兎を知っているという事実であり、それは彼らにとって同じ逆の選択肢を思い出させるものだ。

錆兎は言う「努力はそこまですれば良いというものではない」。他の柱たちに対して義勇が唯一違うと感じているのは、天性の才能や出自を持たない自分は、ただ努力するしない、という想いがあるかどうかである。他の柱たちはお互いを意識していないが、義勇は違う。自分は場違いなところに来てしまった、と感じているのかもしれない。「嫌われていない」と主張するのも、そもそも柱たちがそこまで義勇を意識していないと感じているせいだろう。

冨岡義勇の孤独のもう一つは、水の剣士であることだ。彼は一般的な水の呼吸のため、また主人公である炭治郎が使う呼吸と同じため、物語では活躍する舞台が少ない。

彼が登場するのは、炭治郎が「生きるための選択をする」可能性を示すためだ。彼は竈門炭治郎の選択肢として物語上要請されていると同時に、読者が俯瞰したプレーヤー視点でありつつ、生きるキャラクターの葛藤を対比させるのに必要なのだ。

鬼殺隊としての義勇は、最初鬼と変わらない冷徹な敵として炭治郎の前に立つ。命乞いをする炭治郎を一喝する義勇の有名な台詞は、鬼殺隊の立場を代弁すると同時に炭治郎に「生きる選択肢」を取ることを迫る。冨岡義勇の登場は、炭治郎がこの冷徹な鬼殺隊のように生きる選択をせよ、というプレーヤーの体現である。つまり、妹を救いたいなら、ゲームを放棄せず、キャラクターを選んでプレーを続けなさい、ということだ。

でなければ冨岡義勇が何故炭治郎を助けたのか、理由がはっきりしない。彼は鬼を憎んでいるし、妹の禰󠄀豆子が鬼になったことも冷静に見ている。亡き姉について冨岡義勇が後悔しているのは事実だが、鬼を憎む理由になっても、救う理由にはならない。炭治郎に期待しているのはわかるが、鬼に成長するかもしれない妹をみすみす逃すのも不可解である。

その意味で冨岡義勇の存在は、炭治郎が生き残れるかどうか、という時に必ず連想される。最終選別のサイドストーリーで錆兎が必要だったのは、彼が生き残らなかった選択肢としての冨岡義勇の分身だからである。

那田蜘蛛山で現れたとき炭治郎を救ったのも、義勇がいなければ炭治郎は生き残らなかった可能性を感じさせるものだ。無限城での戦いは逆に炭治郎がいなければ冨岡義勇は生き残らなかったかもしれないが、いずれにしろ冨岡義勇の役割は、常に生きるか死ぬか常に選択肢のもとに置かれている、という実感を認識させるものである。

その意味で冨岡義勇の存在はこの物語において二重に孤独である。彼は柱という重要なキャラクターではあっても、そうなったのはこの生において錆兎の代わりとして鬼殺隊士としても偶然だったかもしれず、水の剣士として炭治郎の代わりだったかもしれない。

義勇の「生殺与奪の権を他人に握らせるな」という言葉は、その孤独のなかでの選択肢として強く響くのである。


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