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「うしろめたさの人類学」 (読書感想文)

ずっと「見なかったことにしていた記憶」が溢れ出てきて辛い。
読後の感想はこの一言に尽きる。

中学2年生になったころだと思う。父親が「発展途上国」と呼ばれるところへ単身赴任した。インドネシアのジャカルタだ。赴任してわりとすぐの夏休みに、父の赴任先へ母と妹と3人で遊びに行った。父のおかかえ運転手付きの車に乗り込み、大規模な渋滞にはまりこんだ時、私は衝撃を受けた。「ストリートチルドレン」の存在だ。花飾りを売ろうとする女の子、壊れたギターで歌を歌ってお金をもらおうとする兄弟、幼子を抱いて無言で手を差し出す女性。”物乞う人々”に戸惑いながら、思春期の正義感は感化された。その体験がきっかけで「大学では途上国の実情について学ぶ」が目標の一つになった。(同時に”芸術”への内心の希望もあったが、それはまた別の話だ)

その希望は無事に現実となり、静岡から東京に上京して進学した私は、同じく東南アジアの途上国の一つである「フィリピン」研究にのめり込んだ。(専攻としては文化人類学。異文化コミュニケーション論。カルチュラル・スタディーズ、言語学など領域横断で勉強していた。)語り出すと長くなるので、ひとまず大学生の間、フィリピンについて試行錯誤してきたことを、箇条書きしておく。

・毎年、夏季に2週間〜1ヶ月フィリピンに滞在して、某貧困農村に滞在。
・物資支援、実態調査、改善検討する小さな学生団体を立ち上げ、運営。
・1年間、フィリピン大学に交換留学をして、農村にさらに密着。
・国際協力機構(JICA)フィリピンでのインターン。
・帰国後にはフィリピンをテーマにした写真や絵画を展示。
・日本で稼いだお金を送金し、農村の子供を学校に通わせる。等々

若かったので判断も甘くてガバガバだったけど、その時の自分にできるベストを考えながら、青臭く走った5年間だった。物理的に時間をかけた分、思いの密度は濃かった。

でも大学4、5年生を迎えた頃、支援のありかたに悩んでは自己嫌悪に陥るようになった。

「うちの小学校カメラないから、今度来る時はカメラが欲しいってナオミに言っておいて。」
「●●が学校に通うためにお金送ってくれてたけど、実はあの子、もう学校には行ってないみたいだよ。」
「ねえ、お金貸してくれないかな。フィリピンでは普通のことだよ。」
仲が良いはずと思っていた家族の、幼い子供の腕に見つけてしまった、
明らかに親からの虐待によるやけどの跡。等々。

被支援側のほの暗い感情をふとした出来事で見出すたびに、この活動の意義は何だろうか?と勝手に辛くなった。向こうの日常を勝手に偽善で踏み荒らし、勝手に傷ついて、迷惑な日本人だったと思う。

現地の人とのわかりあえなさ、支援・被支援の膠着した辛さ。発展途上国で「国際ボランティア」と言われるものを経験した人ならば一度は体験する感情は、あまりに凡庸で、語ることも躊躇してしまう。今思えばそれも大切にしたい心の揺れ動きだったが、当時の私は現実のやるせなさに疲れてしまっていた。自分みたいなドライで冷たい人間には向いてない。そう思った。

かといって、JICAのような国家組織レイヤーで活動するのが自分には向かないことも、インターンを通して感じていた。私は器用な人間ではなかった。だんだん途上国と向き合い続ける生き方に、苦しさが増していた。卒論を見てくれた先生は、大学院に進学して東南アジアを研究する気は無いのかとすすめてくれたけれど、私にはこのまま研究を楽しみ続けることは難しそうだった。日本社会に一度は身を埋めてみよう、このテーマから一度離れようと決め、まったく関係ないところに就職をした。

諦めてしまったな、と思った。

そして社会人になって以降、いまだにフィリピンに再訪できていない。

大学時代、途上国に対する「うしろめたさ」を払拭するべく立ち向かった活動だったのに、最後は自分が負けて、そこから退いた。私はますます「うしろめたく」なってしまった。うしろめたいのは疲れるので、見ないふりをした。そして資本主義と経済活動による快適なやりとりに浸った。

そうやって、すっかり面倒な関係性を取り結ぶことから離れていた自分に、この本『うしろめたさの人類学』は「目をそらすなよ」と優しく語ってきた。
大学生時代の歯がゆさや、苦い記憶を全部盛りで襲ってくる本だった。

ずいぶん前に挫折したプロジェクトのことを蒸し返されて、「あの件どうしましょうか」と聞かれた感じだ。ああ、どうしようかな。
まだ答えは出ていない。
本当に、うしろめたさは世界を救うのだろうか?

※トップの写真は、農村で撮った子供達の手。(2006年撮影)


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