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足るを知った上で足らずを知ること

人は贅沢な生き物であるとつくづく思う。
足りていなかったころの、前を目指すために培い育んでいた美しい思想も、それが満たされたなら忘れ去り、次なる欲求が満たされない。と嘆き、自分の既に満たされている部分には目を瞑り、自分は満たされていない人間だと思い込み、歪んだ色眼鏡、バイアスのかかった目で世の中を見るようになる。

足るを知る。という言葉がある。

その人が客観的に見て満たされている状態がどうかより、その人が自身の状態を満たされていると思うかどうか。が幸せかどうかの基準なのかもしれない。

自身の状態を満たされていると思っているホームレスの方と、自身がまだまだ満たされているとは思えないハイブランドを着飾るタワマン住みの人では、後者の方が幸せではないのだろう。比較的満たされているにも関わらず、主観的に幸せでない状態の人は、より哀れに見えるだろう。

自らが満たされていない状態に思える時、客観的に、様々な人の立場から見た時、どのように見え、自分は人から見てどこまで満たされている状態かを知ることが先決なのではないだろうか。

そこまでの前提を明示した上で、どのような状況においてどのような望みがあるかということを改めて自覚すること。

そうすることで自身の置かれる状態を正しく認識できる気がする。

たまたま高専に行けたが、とてもありがたいことだと今では思う。幼稚園児だった頃、風呂が3日に1回なくらい貧乏だったからだ。
 僕のnote  忘備録 生い立ちについて より

たった4ヶ月前の東京でタクシー運転手をしていた頃、僕は自分の過去について、このように書いている。この時、自分が思った心からの言葉だ。

もし僕が、高専でなく、進学校の共学高校に入学していたら。そこそこの大学の文系に入っていたら。運良く大企業の商社?に入ったりなんかしたら。男女の数えきれないほどの出会いと経験が、僕の人生に上乗せされたことだろう…そんな風に思う。
僕のnote たらればの話 より

これは、土木の仕事を始め、最近書いた僕のnoteである。これはこれで、正確な言語化であり、まさに僕の感覚を表している。しかし、何という現実逃避であろうか。そこには他にもさまざまな状況の変化がもっとあるのかもしれない。
実は、金銭的な面で頑張れば、大学に行けたのかもしれない。しかし、美しくない。
より美しい未来を生きるため、参考にするべきはどちらの思想なのだろうか。

もちろん、未だ未確定の未来に希望と可能性を残した状態で綴る文章と、可能性と未来、過ぎゆく時間がおおよそ見え、一見社会的に満たされた状態に見えるながらも、ストレスや窮屈さ、立場が見せるバイアスなどが増えた状態では単純に比較できないだろう。

しかし、自分が現状様々な立場の人から見てどのくらい満たされた状態であるかについては、逐一自覚した方が健全な状態のように思う。少なくとも客観的に自分の立場を推し量る上で重要な手がかりになるだろう。

このような状況が巻き起こることも、自然なことなのかもしれない。マズローの自己実現論などから学ぼうと思う。他にもわかることがあるのかもしれない。

GWの時、土木をずっとしている友人に会った時。まだ、土木に戻る前の僕は、同じような感情を抱いていた。なぜこのように比較的満たされた社会状況であるにも関わらず、自己肯定できておらず、愚痴が多いのだろう、と。

今なら気持ちが分かる。しかし、土木を始める前の僕から見たら、より満たされた社会状況であることに変わりはない。
少なくとも、そのことだけは常に自覚した上でものを考え、感じたいものだ。

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