演劇論

「ありふれた演劇について」1

演劇という場は誰が活動する場所なのか、という点についてまず考えておきたい。最初に思いつくのはパフォーマー=俳優だ。実際の運動量や消費カロリーを鑑みれば、演劇の行われている場の中で一番アクティブなのは間違いなく俳優だし、一番注目を集めているものも当然俳優だ。演出家や脚本家はその場にいないかもしれないし、観客は寝ているかもしれない。運営に携わるスタッフもプロデューサーも、ほとんど表には出てこない。俳優は思い立ったら、そのまま街角に立って演技を始め、それを演劇作品だとして世に問うことすらできる。通行人が勝手に観客になってくれるだろう。脚本家も演出家も、観客も、もちろんこういった特権は持っていない。

しかし当然、演劇の場で行われている活動は俳優による活動だけではない。そこには複数の観客がいて、様々な思考や感情が生まれている。これもアクティブな存在と言うに十分だ。その活動はその場に限らず、例えば終演後に、劇中に出てきたコーラが飲みたくなってコンビニで買ってしまうとか、流れていた音楽をつい口ずさんでしまうとか、具体的な行動を起こすかもしれない。もちろんこれは些細な例だけど、場合によってはもっと大きな社会的なふるまいにつながっていく可能性もある。家族や友人に対する接し方に変化があったり、上司や政権のやり方に疑問を感じるようになったり、場合によっては転職や引っ越しを検討したりもするかもしれない。ここまでいくと演劇とは直接関係ないように感じられるかもしれないけれど、こういったことは決して無視はできない。何しろ演劇には形はない。はっきりとこういう形をしていると示すことはできない。舞台上で起きていることだけを切り取っても、それは演劇には見えない(演劇のリハーサル、には見えるかもしれない)。舞台も客席もそれを含めた劇場もそれを含めた街全体も、社会や国家も宇宙も、すべて不可分につながっている中で初めてこれが演劇だと言えるのであれば、ではこの中で演劇の輪郭はどこにあるのか、という問いには答えることができない。あるいはしばしば言われるように、観終わった後に観客の中に残った何かこそが演劇なのだ、という言い方をするしかないだろう。

観客にとって演劇は、常に演劇を観ようとする活動、チケットを買うとか、劇場に行くとかいった行為から始まる。だから観客の視点に立てば、(演出家や俳優ではなく)観客の側からの活動こそが、いつもその最初にある。そして劇場を去り、社会活動に戻っていくという活動によって終わる。こういった観点から演劇全体について考えれば、観客の活動こそがその中で最上位にあるということは、素直に信じられるように思われる。

演劇というものを、主に俳優の活動の場として考えるか、観客の活動のための場として注目するかによって、演劇論にはふたつの種類の書き方が考えられるだろう。俳優の意識、思考から出発し、俳優がどのように演技を捉え、どのように主体的にふるまうべきかについて書くか、もしくは観客の側に立って、どのような体験が得られ、どのような印象を受ける作品がよいか書いていくか。前者はいわゆる演技論とも目されるかもしれない。後者は演劇批評に見えるものになるだろう。このふたつについては、どちらかに偏重してしまってもよくないので、片方に限定することなく、うまく両者を往復しながら演劇論を展開できたらと考えている。俳優も観客も断絶せず、同じ人間として共に思考し、その思考が自由に交通し、発展していくようなことを演劇の理想として考えていきたい。俳優の側に偏重していては、結局それは「実際に舞台上に立つのが一番良い鑑賞方法」ということになってしまう。それでも演劇としては成立するのかもしれないが、現在の演劇にあるはずの制度とは大きく隔たったものになる。私はこの制度については決別をしないまま演劇を実践したいし、それを手放さない態度でこそ思考できることがまだまだたくさんあると考えている。といって観客の側ばかりに立ち、目に見えるものしか問題にしないのであれば、間違いなくそこに働いているはずのパフォーマー=俳優の意識、その不確定さや曖昧さを無視することになり、上演を固定されたものにしてしまう。それでは俳優と観客の関係は断絶され、劇場は安全なものになり、今度は演劇の制度を過度に強化してしまうことになるだろう。

演劇の制度というのはやっかいな問題だ。演劇が劇場を通じて社会に繋がっていくモデルで考える以上、そこにはどうしても制度が存在している。それは法律や助成金のような、国や自治体のレベルでの制度もあるし、プレイガイドやメディアのような民間サービスの上での制度もあるが、何より、はっきりと表れることはない、人々が「演劇」というものをどのように捉え、何を期待し、またどのような態度で観に来るのかというような、「人々の中での制度」とでも言えるようなものが存在している。もちろんそれは都市や劇場、世代、ジャンル(という言い方はあまり好きではないが)によっても異なるし、個人レベルでの違いもあるだろうが、しかし制度は確かに存在しているし、実際に機能している。そしてそれは「演劇には舞台と客席がある」とか、「照明がある」とか、「チケットを買って時間通りに劇場に行くと上演が始まる」とかいったような、演劇の基本的な形と言えそうなものを規定している。そういった中で、どこの制度にも属さないような、不定形で不可解なものがいきなり現れて社会に対して何らかの作用をもたらすということは、どうしても起こりづらいだろう。そしてこういった制度は信頼しすぎても、無視しすぎても自由ではなく、豊かでもない。常に問い直しを続けなければならない。制度の中にありつつもそこから脱していく姿勢を取り続けることこそが、より広い範囲で、より多くのことを語れる態度だと思う。大事なのは多くの可能性を獲得すること、豊かで、自由なありようを目指すことだ。

また俳優と観客、両方の側から考えるといっても、そのふたつが全く平等で、差異がないものだと言うつもりはない。劇場という場所が、作り手も観客も含めた大きなひとつの共同体であり、そこでは全員がまったく等しいのだというのは、やはりどこかで無理がある。それはひとつの理想としてはあり得るだろうし、奇跡的にそれが叶う特別な例ももしかしたら存在するのかもしれない(そしてそれは実際に素晴らしいものなのだろう)が、結局これも、演劇を制度から隔たったところに成立させようとする行為だと思う。そこから出発することはしたくない。俳優と観客のあいだにある差異をみつめ、それを受け入れながら、しかしそれをどう近づけていくか、あるいはどのように活かしていくかについて考えていきたいと思う。

そして制度の中からそのありようを問い直しながら、いつかその制度自体が形を変えていくことを望んでいる。制度の形はいつも変わり続けなくてはならないが、それは当事者たちの不断の努力や議論、挑戦やあるいは失敗によってようやく為されてきたはずだ。変化が認識されるまでに時間がかかったりもするだろうし、勘違いも起きるだろう。私は今、少なくとも日本、あるいは東京圏の一部において、演劇の制度自体が変化しつつある兆しを感じているし、そのことを意識しながら日々演劇に向かい合っているつもりだ。この変化が大きなものとして「成功」するのか、あるいは一過性の流行に過ぎないのかはまだわからないが、この演劇論の中でそのありようを描き出すことができたらと思う。そしてさらに自分の実践の中でその変化を後押ししていきたい。その挑戦の中で発見したことや考えを深めたことなども随時書いていくつもりである。

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