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「ありふれた演劇について」7

小さな声が好きだ。小さな声が欲しいと思って、ずっとやってきた。元々人前に出るのはあまり好きではないし、大人数が集まっていると怖い。規模の大きなイベントとか、そこに快感があることは理解できるけれど、出る側であれ観客側であれ、一歩引いてしまう。お祭りの人混みはわりと好きだが、それはその非日常性を一人でしみじみと楽しんでいるのであって、進んで神輿を担いだりはしない(そもそもそういう文化のある場所で育たなかった)。

一体感に没入することができないし、快感に身を任せることもできない。きっとそれは自分の人格形成において、そういう体験が影響することがなかったのだろう。人前で喝采を浴びた快感や、一丸となって何かを成し遂げた達成感を、生涯をかけて追い求めようとは決して思えない。むしろ真逆で、一人でしみじみと楽しんでいられるような場所をずっと探している。自分の人格形成には、薄暗い劇場で膝をかかえていたり、深夜の自室で借りてきた映画を観ていたり、カビ臭い図書館の半地下で本を読んでいたような体験の方が遥かに影響を及ぼしている。

とはいえ、自分は演劇をやっている。演劇とは集まるための技術だ。一体感への没入や、人前に出る快感とは容易に結びつく。チームにならざるを得ないから、一丸となって何かに向かっていくような楽しみは、どうしても付いて回る。こういったものが得たくて演劇をやっている人も多いだろう。自分もそのこと自体は否定しない。そういうものを追求した演劇だって、もちろんあってしかるべきだ。しかし自分はもっと違うものを求めている。演劇を通じてこそ、例えば本を書いたり映画を撮ったり音楽を作ったりするよりも、「一人でしみじみと楽しんでいられるような場所」に近づくことができると信じている。

ところで先日、星野源のラジオがTwitter上で話題になっていたので聞いてみた。いわゆる自粛期間の始まる時期(緊急事態宣言が発令される直前の4月2日深夜)に彼が始めた企画「うちで踊ろう」に、その後安倍総理大臣が「便乗」したことに関して、初めて自分の意見を表明したというのだ。誰でも気軽に動画上で星野源の歌とコラボレーションできる「うちで踊ろう」を、権力者である安倍総理大臣が「利用」したことに対し、その動画中の優雅な振る舞いも相まって、ネット上では批判が相次いだ。それに対して「批判するようなことではない」と擁護する意見もあり、ハッシュタグ「#うちで踊ろう」は一時期、政治的な議論(と言えるほどのものでもないが)の場となった。また、ファンと思われる方々の「政治を持ち込まないでほしい」という意見も目立った。

ラジオの発言を要約すれば、「自粛期間につらい思いをしている人たちにとって、何も考えず楽しめる場であって欲しいと思って「うちで踊ろう」を投稿した」「もちろん自分の意見や考えていることはあるが、それを言ってしまうと、議論の場になってしまう。楽しい場こそ今必要だし、それを守りたかった」といったことになるだろうか。もちろんこれはかなり雑なまとめ方で、本人はものすごく慎重に言葉を選んで、切実な思いをまとめているので、もし可能であれば是非、オリジナルの音源を聞いてほしいhttps://youtu.be/qdbEWnce91o(33:49ごろから。この前にBLMの話をしており、それとつながっているので併せて聞くとより正確に理解できると思う)。

衝突や摩擦から自由でいられて、楽しく過ごすことができる場所。星野源はさらに、そこで個人が政治的な考えを深めることも否定しない。自分のラジオ番組においては、選曲を通じてそれとなくメッセージを発することもあり、気づいた人が自分の中でものを考えられたら良いと発言している。気づかなくても楽しく過ごせたら良い。「うちで踊ろう」も同じように考えていたはずだ。だからそこでは個人の振る舞いは自由だが、場が壊れてしまって欲しくはない。しかし例の騒動の中で、その場は綻びかけてしまった。

誰もが楽しくいられる場所というのは、果たして可能だろうか。星野源はラジオの理想として、自分が思春期のころに聴いていた小堺一機・関根勤の深夜ラジオ番組を挙げているのだが、深夜ラジオとSNSでは場がずいぶんと違う。深夜ラジオは聴く人が限られるし、志向も似た人が集まる。当然政治権力とは相当な隔たりがある。ましてや時代も今とは違う。1988年生まれの自分にも多少記憶があるが、90年代はまだメディアの中に怪しいもの、危なげなものがずいぶん溢れていた。それは一般の社会とは違う、独特な空間だった。それらを全面に肯定するわけではない。そういった文化のある側面が、そこから排除された人たちへの冷笑や見下しの目線、差別的なステレオタイプを強化したという現実もあるだろう。しかし同時に、集まった人たちによる楽しい時間が深夜ラジオという場にあったこともまた事実なのだろう。

SNSは誰にでも開かれている。それはもはやひとつの公共圏とも呼べるかもしれない。権力者でも芸能人でも匿名アカウントでも同じように発言が可能であり、相互に平等に届き得る。つい先月も検察庁法改正案をめぐり、ハッシュタグによるアクティビズムが政治を動かした(たぶん)。そのときSNSはデモにおけるストリートのように見えた。発言の自由がある程度は保証されており、声が集まれば可視化される。実際に公共圏としてのSNSへは、新たな運動の場として期待の声が寄せられているように見えた。しかしそれは同時に、他者にいきなり殴りかかることも、大事に作ってきた場所を台無しにすることも可能な場所だ。ここでは感情が優先されるし、負の感情は何よりも強い。SNSが節度と品位と知性を保っていた時代は楽しかった(記憶を美化しているかもしれない)。もはや忘れかけていた死語だが、まだBBSが主体だった時代には「ネチケット」という言葉があった。ネットはネットという、ひとつの独自の場であって、そこにはそれなりのルールが存在しているとされた。今では形骸化されたルール(FF外から失礼します)が一部にあるだけだ。SNSは現実の鏡であるが、それは節度や理性といったタガの外れた現実にすぎない。確かにSNSによって、今まで抑圧されていた声がようやく可視化されたという現実もあるし、当然良い面もあるとは思うのだが、とはいえこの野蛮な集団の中で、公共などというものはほとんど成り立たないだろう。誰にでも開かれているが、開かれすぎると「ダメ」になってしまう。これはSNSのもつ限界と言っていいだろう。

「うちで踊ろう」は、誰もがただ楽しめる、かつての深夜ラジオのある一面としての「よい場所」として構想された。しかしそれはSNSという場所で開かれすぎてしまったために、本来つながって欲しくなかった「政治(的な対立)」なるものと接触してしまい、「ダメさ」に巻き込まれた。もしこれがSNSでなかったなら、現実空間で有名無名問わずいろんな人とコラボをするだけだったら、こんなことにはならなかったはずだ。自分はこうしたSNSについて、「開かれている」とはどうしても言えない。これは決して、本来の「開かれている」では断じてない。では、「開かれている」とは一体どういうことだろう?

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