「ありふれた演劇について」序
演劇は理論ではない、と言い切るつもりはないが、しかし演劇論を書くにあたっていきなり理論で固めても仕方がないという思いがある。演劇にはどうしても実践が必要で、実践するということは、予想外のことが起こったり、うまくいかなかったりするということだし、演劇論が機能するためには、それらも含んだまま成立していなくてはいけない。自分が批評家や哲学者であれば、実践を離れて演劇について語ることはできるだろうけど、やはりどうしても実作者であるので、この実践という観点は忘れるわけにはいかない。
それに、どう実践するかという部分にこそ蓄積されている知恵だってある。こうなるとこうなっていく傾向がある、この状態だとその根本にこれがある可能性が高い、といったような。しかしその知恵というのも、なぜそうなっているのか自分でもよくわかっていないことは多いし、ただ経験則としてそうだとしか言えない部分も、かなりある。こうした経験則は、稽古場で俳優と話しているうちに何か具体的な言葉になったりもするけれど、それも毎回毎回同じメンバーでもないので、別の場になるとその言葉は有効ではなくなって、また違った言葉になってしまう。
だからこれまで、ずっと暫定的にしか話してこなかった、という感覚がある。とりあえず今のところは、今回は、こういうことでやっていこうよ、という感じだ。しかしそうして暫定的な試みを繰り返す中で、「それって普通のことですよね」という結論に達することがしばしばあった。一見特殊そうなことに思えても、これを追求するとどんどん普通になってしまう、ということが頻発したのだ。普通というのは、日常的な活動や、日々の生活の中に存在するようなもので、特殊な訓練の先に会得するようなものとは違った、まったくありふれた状態のことだ。そしてその「普通さ」は自分にとってとてもよいことだし、もしかしたらむしろ、実は最初からそれを目指していたのかもしれないということに、だんだん気づいてきた。これまで色々試みてきたことは、「普通の状態」の周囲を廻るようなことであって、そこから出発することで中心の空白地帯である「普通」を志向していたのだと。しかし最初からまっすぐ「普通」を目指してしまうと、それは純度の低いもの、「普通を目指した普通」になってしまうし、それはフィクショナルな「普通」に過ぎないから、きっと自分はそれを避けようとしていたのだと思う。
試みがどうしても必要な演劇という手段で、恣意的でもない、作為もない「普通」を目指すというのは、ある意味では矛盾した行為であり、究極的には到達不可能なのかもしれない。しかし自分は実践者であるので、究極になってはいけないから、実践ができているくらい中途半端であることを理想としている。中途半端であるから作品ができるし、中途半端な状態ではたくさんのことを意識しないといけない。その中で初めて知ることができるものもあるし、この状態から他の様々な可能性に横転してくことだってあり得る。このことは豊かさであると思うし、同時に自由とも呼べると思う。そして豊かで、自由であるということは、誰にとっても非常に良いことだ。私はここに演劇の可能性を強く感じている。
だから私はこの演劇論を「ありふれた演劇について」と名付けた。ありふれた演劇というのは、演劇としてよくある形態であるとか、珍しくない表現であるとか、そういうことではなくて、私たちにとってありふれた状態、ありふれた有様に接近しようと試みる演劇のことだ。もちろん、ありふれた状態というものに普遍的な答えは存在せず、私個人がありふれていると感じても、違う文化圏の人からしたらありふれてはいないかもしれない。しかし少なくとも、演劇を作っているメンバー間で共通した、ありふれた状態というものに接近していれば、そこには豊かさが生まれるし、それによって他者とのあいだにひとつの大きな意味をもつものになると思う。
なのでこの連載の中では、演劇の実践の話もするけれど、少しだけそれから外れたことも書いていきたいと思う。この文脈の中では、生活における実践も非常に重要だからだ。とたんにエッセイじみていくこともあるかもしれない。終わりは特に考えていないので、まとまった答えに到達しないでいながら、営みを続ける運動体として存在できたらと思う。劇団の(私は自分が代表を務める集団である円盤に乗る派を「劇団」ではなく「演劇プロジェクト」と呼んでいるけど、しかし大きな括りで言えばそれは社会的には間違いなく「劇団」なわけだ)主な活動は作品を上演することではなく、「継続して存在すること」だと考えている。上演というより、むしろ「演劇を続けている」という行為をしている集団こそが劇団なのだという認識だ。だから上演はあくまで劇団に付随する副次的なものに過ぎない。上演それ自体よりも、劇団こそが作品だとすら考えている。継続していること、持続してアクティブであること、そこに意味を見いだせるのが劇団であり、演劇というジャンルだと思う。だからこの演劇論は、継続して存在し続けることの表明でもある。考えながら書くので、自分もだんだん変わっていくかもしれない。それはそれで楽しみでもある。
ちょうどこの文章を書いているときに、文化庁があいちトリエンナーレ2019に対して補助金の不交付を決定したというニュースがあった。これを巡っては様々な議論が飛び交い、抗議運動も行われているけれど、その中で「そもそもなぜ国が芸術に対してお金を出さなければならないのか」という意見は非常に多く見られる。今回のことが起こるずっと前から、様々な人たちがその説明を試み、少なくとも助成金の制度は昔に比べたらずっと整備されてきた(と聞いている。私が活動を始めたときにはもう、ほぼ現状に近い状態であったので)。しかしまだ、芸術が社会にとって必要だと考える人は多数派ではないのかもしれない。私も、どうしたらその理解を広めることができるかについて、しばしば考えてはいるけど、無理やりな理屈をでっち上げずに(観光資源になる、ビジネススキルの向上につながる、などなど)広く理解を得ることは、非常に難しい。しかし私は演劇活動を続けていて、これが社会に対して無関係なものであるとは思っておらず、むしろ非常に地続きにあるものだと感じている。それがどういうことなのかについても、この演劇論の中で追求していきたいと考えている。
だから演劇を実践したい人、より深く鑑賞したい人、さほど演劇に興味のない人、などなど、様々な方に読んでいただけたらと考えているし、特定の人たち向けに書いていこうとは考えていない。できるだけたくさんのことを書けたらと思う。
最後に、これから書こうと思っていること、今興味のあることを、いくつかトピックとして挙げる。概ねこのようなことから書き進めていくことになるかと思う。
・声の小ささについて
・言葉の出どころについて
・身体の弱さについて
・舞台上での身振り、行動について
・せりふの構造について
・舞台という場所について
・舞台上での記号について
・劇場という場所の価値について
・フィクションの立ち上がりについて
・音楽の意味について
・観劇とは何をすることなのか
・土地、固有名詞について
など
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