演劇論

「ありふれた演劇について」4

弱い身体についてもっと広く考えてみたい。これまで俳優の方法として語ってきたけれど、これは決して俳優に特権的なものではなく、むしろ我々の普段の日常の中にこそある「ありふれた」状態のはずだ。俳優という特殊な技能を持った人間が、舞台という特殊な場所でこそ発揮されるような状態ではない。むしろ、あえてことさらその状態を強調して立たなければいけないという意味において、演技をしている俳優の「弱い身体」こそ例外的なあり方と言えるかもしれない。これは同時に、なぜ演劇を観るのかについて考えることでもある。演劇は決して特別な、現実世界と隔離された場所では決してなく、日常や普段の生活、生き方についてより深く知るためのツールであり、演劇を介してこそ我々は自分自身について自覚的になることができる。そしてそこにはどうしても身体が関わってくる。ある観劇体験において、身体は無意識のうちに「弱く」なってしまう。「弱く」なった状態、それは別のものになってしまう可能性を常に保持し続けることだった。あらゆる可能性に晒され、特定のあり方に固定されない不定形な状態においてこそ、観劇体験は自分の生活や生き方に対して意味のあるものになる。もちろん、すべての観劇において身体が「弱く」なってしまうわけではない。個人的な体験から出発しながら、どういう観劇において弱い身体が表出するのか、考えていきたいと思う。

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