「ありふれた演劇について」27
戯曲を読んで感想を言い合う読書会を先日開催した。ひとまず思いつき程度に始めたものだけど、しだいに定例化していけたらと思う。
こういうことをやろうとした理由は大きくふたつある。ひとつは軽薄な理由で、この半年に『ドライブ・マイ・カー』と『偶然と想像』というふたつの濱口竜介監督作品を観て、ネットや書籍でその感想や批評を読むうちに、「テキストを声に出す」という行為に対しての人々の関心が思ったよりも高いらしいということに気づいた。もちろん、それらの作品で描かれる「声に出して読む」という行為については、演劇をやっている身としては多くのことを考えさせられるものだった。だから自分自身も影響を受けたという面もあるのだが、しかし同様のモチーフは例えば過去の『ハッピーアワー』にも登場したにも関わらず、当時この点に着目した意見は少なかったように記憶している(長大な作品のため、他に見るべき点があまりに多いというのもあるかもしれないが)。
おそらくここ数年のメディア環境や、もしかしたらコロナ禍という状況が影響している可能性も否めないが、「テキストを声に出す」ということへの関心は、以前よりもずっと高まっているのではないか。そこで、せっかく「円盤に乗る場」という場所もあるのだし、気軽に始めてみようと思ったのだった。実際参加者からは、声に出すことによって改めて戯曲を深く読み込むことができたという意見が多く出て、その関心に多少は応えることができたのではないかと思う。
もうひとつの理由は、みんなが声を出すということの公共性について最近思うことが多いからだが、その前に、なぜ「読み合わせ」ではなく「読書会」と銘打ったのかについて説明したいと思う。
「みんなでテキストを読む」となったときに演劇人はよく、いわゆる「読み合わせ」というものをやる。「本読み」とも言ったりする。稽古の初期段階の、実際に舞台に立つ前の段階でよく行われる、車座になって台本を持ち、台詞を声に出して読むワークだ。人と本があれば簡単に行えるので、戯曲の勉強会のような形で開かれることもあるし、また構えずに演技ができるという楽しさもある。実際に私も高校生のとき、演劇部の部室でよく他の部員たちとよくこの「読み合わせ」をやっていた。これは単純に楽しかったからだし、やることによって戯曲の魅力も多く発見できたと思う。少し前に俳優の星秀美さんが「読み合わせカフェ」というものを開催していたが、その話を聞いたときはあの高校生の部室での楽しさを思い出した。
しかし私は実際にはこの「読み合わせカフェ」には行かなかった。なんとなく、自分が演技を求められることに抵抗感を感じてしまった。演劇部ではどのように演技をすればよいかということは決まっていたし、自分はそれを普通にやることができたし、そもそも他の演技の方法なんて知らなかったから、現前してくるものを無批判に喜ぶことができた。しかし実際は、演技に至るにはあらゆる段階があるし、演技も様々な形がある。もちろん、選ばれている戯曲のスタイルや、なんとなく伝わってくる場の雰囲気から、ここの場にふさわしい演技の形というのは想像できるような気がする。しかしそれは、場所に対して演技を合わせていかなければならないように思えてしまって、どことなく行く気が引けてしまったのだ。
とはいえ、誰でも演技をしてもよく、それができる場所が必要だという考えは非常に共感したし、ここが楽しい場所であっただろうことは想像できる。上に書いた自分の懸念も、行ってみたらそんなことはないのかもしれないし、また実際にそうだったとしても、その方が参加しやすい人がいることは十分に理解できる。だから一概に否定するものではないが、であれば自分が参加しやすいような会を開きたいと思った。そういう意味で、先日開催した読書会は、読み合わせではなくてあくまで「読書会」と銘打っている。
人前に出て演技をするという行為は、多かれ少なかれ場所に自分を合わせに行くことだ。これは舞台の上に限らず、街に出るときはそれなりの格好をするし、会社や学校ではそこにふさわしい振る舞いをする。一般論として公共の場所というのは、ふさわしい演技を求められる場所のことだ。しかし最近自分の中では、果たしてこのような、ふさわしい演技が求められる場所だけが公共性のある場所なのだろうかという意識が強くなっている。決してすり合わされることのない、交わらない個々人のあり方が表出する場所、特権的な芸術家だけでなく、観客も含めたあらゆる人々の個が表れる場所こそがまさに公共的だと言えるだろう。ここでは言語体系を合わせる必要はないし、ひとつの価値基準を採用する必要もない。他者にも介入しないし、また介入される心配もない。
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