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涼宮ハルヒはいかに私のような鬱屈したニコニコキッズの心を捉えたのか?

 本屋はよく来ていたが、ラノベのコーナーなんて初めて来た。目当ての本があることを確認すると、一度その場を離れた。すぐに買えばいいのだが、一息ついて、落ち着く必要があったのだろう。

 中学生だった私は、この文教堂という本屋で新たな文化と触れることになった。ライトノベル。文字通り「ライト(軽いという意味のほう)」なノベルだ。買いもしない漫画コーナーを一通り見終えると、いよいよラノベコーナーへ戻り、一冊を手にした。

 涼宮ハルヒの憂鬱

 当時、爆発的に人気のあった作品だ。今日も歌などを通じて広く知られている(と考えるのは、オタク的傾向があるせいかもしれない)。

 僕はレジに向かった。──僕という一人称はあまり使わないのだが、この自分を表現するには僕が相応しいと感じたのでそう表現する──恥ずかしくて手が震えている。いや嘘だ。というかそこまで覚えてない。でも恥ずかしかったのは確かだ。何しろ多感な一人の中学生が二次元女の子が表紙の文庫を購入するのだから。とあたかも一般的なことのように書いてみたが、案外みんなはそうでもないのかもしれない。

 そのあと、僕はスキップで家に向かった。いや、これも嘘。けどたしかに興奮はあったと思う。恥ずかしいことと興奮はセットだ。

 さて家につけば、いよいよラノベデビューである。結果はどうだったか。その日に読み切った。というかほとんどぶっ続けで読んだ気がする。これには自分で少し驚いた。本というのはじっくり何日かかけて読むものという固定観念があったし、そんなに集中して読めると思ってなかった。元々、本はそんなに読む方ではなかった。けれど読み切った。これは「ライト」であることが一つの要因であるのは間違いないけど、内容が心に刺さったのもまた間違いないだろう。

 何がそんなに面白かったのだろうか。思いつく要因をあげれば色々あるが、色々ありすぎてこれだと言えない。まず一つを挙げるならば「僕は背伸びをしたかった、オタクに憧れていた」ということだと思う。背伸びとは比喩であって腕を肩より上に上げる(伸ばす)運動そのもののことではない。

 中学生といえば、自我が芽生え、他者との違いということを意識する時期である。「高校を選択する」というイベントも待ち構えていて、自分はどうなるのか、ということに(意識的、無意識的にしろ)直面する時期だと思う。たぶん平均的には。

 しかし、自分は何かと考えても、ただの中学生である。まぁ、もちろん個性は色々あるが、少なくとも僕はただの中学生であった。しかしそこに反発したいという気持ちがあり、それが自我が芽生えるということなのではないか。そして「自分はこういう人間である」というアイデンティティを収集し始める。

 「自分はこういう人間である」というアイデンティティを収集したらそれが〈自分〉なのか、〈自分〉とは何か……という話をすると迷宮なのでやめておこう。

 そんなわけで僕はオタクになりたかったのだと思う。という分析をしたのは最近だ。まぁおそらくは、ゲームが好きで、ネットが好きになった時点で運命づけられていたのだろう(おおげさ)。またニコニコ動画の影響は大きいだろう。なおその後オタクになったのかというと、うーん、結局アニメやラノベにはハマれなかったが、何かにのめりこむという性質はあると思う。

 さて、涼宮ハルヒとは、どういう作品・物語なのか? これはなんとも難しい。この難しいという点が、魅力であるとさえ思う(それはエヴァも共通しているように思う)。青春の話だとか、メタSFだとか、そういう言い方もできると思うが、ここでは「理想と現実」という視点で見てみたい。ちなみに当時以来、改めてラノベを読んだりアニメを見たりは全くしておらず、内容の詳細はほとんど忘れているので、曖昧な記憶で書く。作品の考察ではなく、「私の記憶に残った涼宮ハルヒとは何かなのか、再考してみる」である。多少のネタバレは含む(そして私の記憶違いの可能性も含む)。

 さて「理想と現実」とはどういうことか。つまり、あの作品を通じて僕(あるいは僕たち)は、「理想の高校生活を、そんなことはあり得ないと理解しながらも擬似体験した」のではないか、ということだ。

 簡単に作品の概要を書く。「フツーの高校生、主人公のキョン」は、とんでもない女子高生ハルヒに振り回され、バカげていると思いながらも、部活をつくったり、野球の試合に参加したり、学園祭のライブにでたり、SFな出来事に巻き込まれたりする。

 高校生といえばある程度分別もつくし、現実も分かってくる。サッカー選手になるのは並大抵なことではないし、魔法の箒で空を飛べないことも知っている。いやそれはもっと前からか。まぁ、そういう夢みたいなことを言ってもしょうがない、という折り合いを知る時期でもあると思う。まさに主人公、キョンのように。「やれやれ」と、子供じみたハルヒにため息をつく。「俺はバカバカしいと思うが、あいつが俺をムリヤリ連れ回すんだ」と。

 そんな呆れたキョンと裏腹に、物語はハルヒを中心に非現実的なことが度重なる。夢よりも夢じみたことが起こっていく。

 ところで「God knows」という曲をご存知だろうか。カラオケのアニソンランキングにランクインする確率は100%である(私調べ)。この曲は、アニメ版涼宮ハルヒの、とあるシーンで流れる。軽音メンバーに欠員が出て、それをハルヒとほかの仲間が代わりに出る。キョンは観客として、その熱狂的なライブをぽかんと観ている。このシーンはかなり印象的なシーンで、僕たちニコニコキッズは何度も見た(私調べ)。長門のギターを弾く指の動きと、顔をくちゃくちゃにして歌を叫んでいるハルヒのアニメーションはすごい。

 このシーンは一体何だったのか。それがまさに、上述した「理想の高校生活を、そんなことはあり得ないと理解しながらも擬似体験した」ということだと思う。考えてみてほしいのだが「文化祭の軽音メンバーに欠員が出て、急遽代わりに出て、熱狂的なライブを行う」という筋書き自体は、かなり青臭く微笑ましい夢物語だろう。しかし同時に、ある種の理想だと言える。「そんなことはあり得ない。けれど、もし本当にそんなことが起こったら、感動的だろう」ということを、我々は現実的なキョンというキャラクターを通して見る。現実的な私たち(キョン)の目に、涼宮ハルヒが「そんなこと」をやってのけるのを見る。確かにハルヒならやってのけるかもしれない、と感じながら。そりゃあ、口もぽかんとするだろう。

 「理想と現実」というテーマで取り上げたのはそういう理由である。つまり、現実がキョンで、理想がハルヒということ。「僕たち」はキョンのように現実を知ってしまったけど、実は、理想というのが自分の中から消えたわけではない。ハルヒはその理想を体現する。その物語が僕たちの疑似体験になる。そこに一種の解放感がある、という構造なのではないかと思う。

 僕たちは現実を知って、ひねくれてしまった。しかし心のどこかで、そんな「現実」をぶち壊してくれる何かを期待しているのかもしれない。

・・・

 なお便宜上、「高校生にもなると、現実を知る」と書いたが、「高校生にもなると、現実を知った気になりやすい」が適切な表現かなと思う。 私たちは、現実を知っているのだろうか?(そもそも現実を知るとは、どういうことだろうか?)

 僕は次の日、また同じ本屋に来ていた。一直線に目的のコーナーに向かい、その本を見つけては、一直線にレジに向かう。やっぱり多少恥ずかしいが、それは問題ではない。そんなことより、早く帰って続きが読みたいのだ。

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◆文・イラスト:ノーマル浮枝

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