雑感 『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』


読んだ

『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』を読みました。

ざっくり読みをした上、ホモ・ネーモさんの記事に多く目を通せているわけでもないので、現在私の持ってる限りの情報から書きます。


ホモ・ネーモさんの記事を読み、考え方を知ってまず感じたことは、「ほとんど同じことを考えてる人がいた」ということでした。唯一『アンチワーク哲学』という看板だけに違和感があり、それは同じ思想にありながら最後の結論の部分だけ異なってるという状況からくるものでした。

しかしその違和感も、『14歳からのアンチワーク哲学』を読みどこか解消された気がします。おそらく結論において出現した差異は、ホモ・ネーモさんが自身が仰っていた「思想が強い人間」という性質が、思想の弱い私と異なったから現れたのでしょう。あるいは家族を持っている、持っていないなどの環境の差かも。

私は、だいたい同じ考えを持ちながら、——社会のあり方に間違いや不具合が多すぎるという意識を持ちながら、「社会がどうあるか」には全く興味がなかったので『アンチワーク』のように進みませんでした。
「人生は趣味である」と結論づけたのり子的には「どんな社会であろうが、個人単位では幸せに生きていける」と考えてましたから。

しかし今回、『14歳からのアンチワーク哲学』を読み、では実際問題、社会はどのようにあるべきか、と考えてみると大体がここに書かれてあることに同意するに至りました。

ですから感想を書くにしても「そうだよね〜」にしかならないので、今回、ここでは追加要素を提示してみようかなと。
読み終わってそのまま書き始めているので、解釈や思索の不足はあるかもしれません。

重箱の隅

をつつくというより、私の考えとは違うなと思った箇所が、本題とはズレた部分で一つ。
インフレが「需要が大きくなりすぎたときか、供給が減ったときに起きる」というところ。
本題に関係ないので、あまり深くは掘りませんが、景気は資産家によって上下すると考えてます。そして投資的行為(株から仕入れまで——投機っていうんだっけ?)が行われている限りインフレになる。需要はそれに追いつくように追っかける。がどこかのラインで追いつかなくなる。そのときデフレに反転する。言うとすれば「需要が供給を追いかけてるときインフレになる」かなと考えてます。もちろんこれが正解という自信はさらさらないですが。


提案

現状、完全に体を壊し続けている社会に、与える薬があるならBI(ベーシックインカム)しかないと私も思います。

ホモ・ネーモさんはその先に、お金がなくなる社会を想定されていましたが、それはどうかなと。
「どうかな」という疑問は、「実現するか否か」というより「それを考える必要はあるか」というものです。お金が無くなる社会は、BIが実現してなお遠い未来の話っぽく、そうなるとほとんどSFなので想定の端っこにちょこんとあるだけならまだしも、大々的に掲げるほどのものかという気がします。

このSFをもっと踏み込んで考えてみると——
お金は本来コスパがいいから導入されたものです。違う文化圏同士でのやり取りの際に必要とされ生み出されたのが貨幣だとのり子は考えますが(柄谷行人が確かそういうことを言ってた気がする)、とすると、貨幣の無くなった世界に、また貨幣を再発明する奴がいるのではと想像してしまいます。

なので、提案として、
これは「アンチワーク思想」と相性がいいと思うのですが、

「労働と金を分離する」

という目標を立ててみるのはどうでしょうか。

①働くことは、命令され行うことではなく、自発的にポジティブなこととして行う。
②BIで金のために働くことが無くなる。

この二点は、「労働と金の分離」に繋がるのではないでしょうか。

①からは、働くことにより得るものは貢献であ流ことが導き出され、
②からは、金は労働の対価ではなく皆に支給される平等な権利という概念が導き出される。

「分離」を目標に立てると、金のコスパの良さも活かしつつ、金が貢献のために働く生活の邪魔もしない。貨幣を無くすのではなく、その解釈を書き換えて無化する、みたいな感じでしょうか。

これが私の思い浮かんだ提案です。
今軽く考えてみて思い浮かぶ議論の一つに、BIによって与えられる金の行く先がどうなるのかというものがあります。まだきちんとは意見は出せないのですが、「商品を提供する人に渡る」より「その場で消える」もののように金のあり方を変えるというのはどうでしょうか。「お金がなくなる」に近い結論になってるかもしれませんが。


「アンチワーク哲学」の射程

ヴィーガニズム

以前から書こうと思っていて、書けていなかった内容なのですが、『14歳からのアンチワーク哲学』を読んでそこに付け足せそうでしたのでここに書こうと思います。

私はヴィーガニストの活動は正しいと結論づけていました。しかし彼らの思想(動物が可哀想)は間違っているとも思っています。可哀想に感じることは正しいのですが、それは論点ではないと思うのです。

食肉産業の何を悪とするか。
私は「食われもしないのに、殺される命がある」ことだと思います。その点、動物だけでなく野菜や果物も同じです。年間何トンと食べられずに捨てられる命。なぜこのようなことが起こるかというと、根源は資本主義にある。

商売をする上で、需要があるのに供給しないというのは大きな損です。それに比べると商品を用意したがいくらか売れ残った、の方が損が少ない。だから店を運営する際、100売れると想定されれば120仕入れます。売り切れで売れないという状況を避けるためです。この仕組みが動物にも適用されている。

その豚が、国民に年間100トン消費されるとだいたい想定できたら、120トンは商品化する。結局、消費されるは100トンです。となると、はなから捨てられるためだけに生まれ、捨てられるためだけに殺される豚がいる。

現在、資本主義の暴走を止める役割をするのは法律です。独占禁止法などの最たる例。法律があるからマルクスの言ったような社会はなかなかやって来ない。
じゃあ100トン消費されると分かったらそれだけを商品化する法律を作ればいいかというとそうはいかない。そんなことをすると豚肉の値段が跳ね上がるからです。結果金持ちは肉を食えて貧乏人は食えなくなる。人が平等に肉を食べるために、無駄に豚を殺す必要はあるのです。

唯一、これに対抗手段があるとするなら、年間80トン消費すると想定させればいい。つまり肉を食わないようにする。この点で、ヴィーがニストの活動は的を射ている。消費を減らせば、80トンと想定され、商品化されるのはその二割り増しの96トン。無駄に殺される豚の命の量が20トンから16トンに減る。
しかしそれだけ。

根本的に解決するには自分たちの食べる肉は自分たちで調達する以外にない。地域やコミュニティごとに、そこの彼らが食べる分の命を用意すればいいのになと、のり子は漠然と思ったりしてました。

最初に言ったように、この社会と倫理の齟齬の根源は資本主義にあります。「アンチワーク哲学」が資本主義を変えるもの(あるいは終わらせるもの)だとするとこの問題の解決につながるのではないでしょうか。

ちなみに、あの「ひろゆき」もヴィーガンを馬鹿にしながら、ペットショップ市場の現状には危機意識を持っていて、度々指摘しています。ペットショップの問題も形が違うだけで、食肉と全く同じ構造で倫理に反している。資本主義の中で命が商品化されたことによる悲劇なのです。


フェミニズム

これも解決されるのではないかと想像されます。

水田珠枝が『女性開放思想史』の中で男女差別の起こりをこのように説明しています。

人類の歴史は、種を保存する労働と生命を維持する労働というふたつの営みによってつくられ発展してきた。このふたつの営みのうち、生命の生産の負担は、生物学的構造からいって女性が負い、そのために生活資料の生産については、男性の方がよりおおくの労力をさくことができた。生産力の低い段階ではこの差異は差別としてあらわれなかったが、人類史のある発展段階で、生命の生産に対し生活資料の生産が決定的優位に立つ状況が出現すると、生活資料の生産でよりおおくの労力をさいてきた男性は、その成果である生産物、さらに生産手段を占有して、女性の生活の手段をうばった。(中略)男性は、女性の生活を保証するというかたちをとりながら、自分の相続人を産む手段、性行為の対象、労働力として女性を所有するようになった。そして、このような男女関係を固定化し制度化するものとして家父長的家族がつくられたのであって、男性支配のこの家族は、歴史の過程でさまざまな変化をとげながらも、古代から現代にいたるまで社会の細胞をかたちづくってきた。

ここでいう「人類史のある発展段階」は農耕の起こった時期です。つまり、フェミニズムの根源もまた貯蓄(=財の蓄え)にあるのです。

財の蓄えが人類に不均衡を生み、その不均衡は生物的な肉体の差異、妊娠/労働においてはじめに現れた。ここを起点として「持つもの」が社会を作っていったからいつまでたってもこの不均衡は是正されないままだったのです。

だから女性が活躍するといって社長になり金を稼いでも何ら根本的な解決には至らないでしょう。「アンチワーク哲学」による社会づくりがなせれるとき、もしかすると不均衡は是正され、また不均衡が生まれないような地面になっているのかもしれません。


ホモ・ネーモの見落とし

見落としというか、見ないようにしているのか。
ひとつ解決されていない大きな、しかももしかすると一番根の深い問題が残っています。
それは、モテる人モテない人の差です。
「アンチワーク哲学」的社会においてこの差はどう解消されるのでしょうか。
私には全く想像できない。うまく行くかもしれないし、事件が起こるかもしれない。

基本的には権力否定の思想ですが、権力は治安維持に最もよく働きます。治安維持を権力で行わなかった(行えなかった)時代に、日本の平安時代とアメリカの西部開拓時代がありますが、どちらも武士・ガンマンが自衛のために現れました。ニケの考える未来像で警察はどのようにあるのでしょうか。


おわりに

少なくとも「アンチワーク哲学」は大きな間違いはない立ち位置だと思います。

のり子的にはこれが「マルクスとニーチェを足して現代用にブラッシュアップした思想」と位置づけられるかな。

ホモ・ネーモさんご本人も自覚されている通り、この思想の筋は、過去の様々な哲学者が主張しています。だからフロイトの後継者やマルクス主義者やドゥルーズやらがやったように、この新しい観点を主軸に今までの哲学を読み直すこともできるでしょうし、そうしてみると面白い発見があるだろうなとも思います。

突発的に筆を取ったのでまだ理論の不備やヴィジョンの詰めの甘さがあるでしょうが、今のところ感想はこんな感じです。

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