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巨大な友人

私はいつも読みかけで本を語る。

これもまた例に漏れない。が、他の本を語るのとは、これは少し違うのである。

いつ会っても面白い話をしてくれる友人がいる。彼を知ったのは二年以上も前になろう。もっとかも知れない。

彼はその紹介文からすでに魅力に溢れていた。

「夫を不慮の事故で亡くしたばかりの女は72歳。彼女への思いを胸に、独身を守ってきたという男は76歳。ついにその夜、男は女に愛を告げた——」

夏休み、祖母の家に帰省してるタイミングで、私は初めて彼を開いた。

嵐のように展開される物語、目眩がするほどのスピードで物語内の時間は進み、すぐにクライマックスを迎えた。今思いだせばその中にも彼特有のユーモアがちらほら出ていた。オウムが賢いのでしつこく教育し、ついには学者のようにフランス語を喋れるようにまでしたが、加減乗除の四則はついぞ覚えられなかったり、バスルームに石鹸があったか無かったかで夫婦が何日にもかけて喧嘩し、ついには夫が「石鹸はたしかにあったよ」と認めて一件落着したり。

二日かけてぐびぐびとビールを一気飲みするみたいに読んでしまった私は、八三ページで物語もひと段落ついてとても満足した。こんなに面白い話があるなんて。と同時に、これはゆっくり細部を楽しむべきだ、と判断するにいたった。

それから彼との付き合いは時間をかけて、少しずつ少しずつ進むことになる。

読む時はほんの数ページ。

この本の素晴らしさは、大きな物語の中に無数に散りばめられた、細かい話である。奇天烈な話、幻想的な場面、ユーモアに富んだ表現。それらを今度は日本酒を吟味するみたいにゆっくり丁寧に読むのである。

二ヶ月以上触れないこともあった。

久しぶりに触れて、その面白さに一気に読み進めてしまうこともあった。

けれど、どんな状況で読んでも変わらないことは、その度に極上の面白さを魅せてくれることである。
たとえば、

恋する相手のための手紙を、授業中にメモを取るふりをして書く。より気持ちを伝えるため、次第にエスカレートした少年はピンの先を使って椿の花びらに細密文字で詩を書いて送る、しまいには自分の髪を同封して送った。

巨大船での旅行。少年は同船している婦人たちを見つけ、気が引かれる。なぜなら寝ている子供を鳥籠に入れて運んでいたからである。

ドン・レオ十二世ロアイサは冷徹な商売人だが、同時に変人でもある。彼は一山当てるために砂漠でレモネードの湧き出る泉を掘り当てようとしたらしい。また彼は声の音波で花瓶を破れる人がいると知ると何年もそれに挑戦し続けた。窓ガラスに対しても声を出し続ける日もあったほど努力した。気を利かせた友人たちが旅先で割れそうな花瓶を見つける度に買って与えたが、とうとう花瓶は割れなかった。

口を開く度にこんな話が飛び出る友人が、ありがたくないわけない。

私はこの五百ページにわたる大長編を、思う存分楽しんでいた。

しかし、ある時、机の上に寝転んでいたその本の栞紐を見て驚いた。読書は終わりも間際に来ているのである。

まさかこの本を読み終わるとは思ってなかった。読んでいればいつか終わるのはこの世の真理だが、この本に限ってそうとは思ってなかった。もしかすると無意識下でそのことを隠蔽していたのかもしれない。

たかが本である。作者ガルシア=マルケスには他にいくつも本がある。実際持っている。次はそれを読めばいいのだが、感情はそう簡単に片付かないのだ。

本は、この点において薄情である。人だって考えてみれば、出会いがあれば別れもある。けれど本の別れは絶対的で、物理的に目に見えていて、しかも私の裁量でその日が来るのだ。

それ以来、私はこの本を開いていない。

彼はどう思っているのだろうか。読んで欲しいのか、そうでないのか。きっと読んで欲しいのだろう。本だから。

この本を読み終える時、ストーリーを堪能した感動以上の虚脱感がありそうだ。

もしくは、案外そうでもないかもしれない。

他に面白い本は無数にある。読み終わってももう一度始めから読み直せばいい。

色々自分の中に覚悟を蓄えて、いつかこの本を開くだろう。

最後は一気読みでもしてやろうと思う。

だからとんでもなく面白い話を用意しておいてくれ。


一年以上も前に書いた文章を見つけた。

そして奇遇にも今私は『コレラの時代の愛』を再び開いている。

やはり面白い。
しかし問題はやはり物語の物理的な寿命だ。こればかりは抗えない。
現在、残り50ページ。

読まない間もずっと枕のそばに積まれていた友人との別れは、今年の夏の終わりと重なって訪れそうである。

にゃー