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六師外道 インドとギリシャ 聖徳太子

前回、釈迦の半生を書くまえに六師外道という用語が出た。
書きましょう。

古代インドにおいて、戦争はあったし、同時にそれは人口が増え、都市が栄えた時代だった。都市社会において権力を持つのは都市を治める王族、貴族(クシャトリヤ)、あるいは豪商人(ヴァイシャ)である。その流れは、それまで強かったカースト制に合わなくなってきて、祭司であるバラモン最上位の空気感ではなくなってくる。
紀元前6世紀頃のことである。
その匂いを嗅いで、これからの時代の倫理を創作し、広めようとした人々がいた。

沙門、と呼ばれる自由思想家、哲学者たちである。

その中でことさら有名だった六人をまとめて、六師外道と呼ばれたりする。ちな、このネーミングは仏教徒によるもので、「仏教=道」「仏教以外の教え=外道」なので、外道呼ばわりされているが、悪者ではない。
その紀元前6世紀のころインドにあったコーサラ国の王プラーナジットは彼らのことを「年長者」と呼んだ。これもまた釈迦を「年少者」と呼ぶのに対応させた形だ。

この六師外道のことに関しては、『沙門果経』に詳しい。

沙門果経

パーリ語原典『サーマンにゃパラ・スッタ』の漢訳、大蔵経阿含部の『長阿含経』(大正蔵1)巻17の27経目『沙門果経』

内容は前後半に分けてみることができ、
前半、六師外道の紹介
後半、沙門が現世で得る果報。戒定慧の三学などをめぐる論。
である。

おはなしとしては、
釈迦が1250人の弟子を連れて修行をしているある夜。
マガタ国の王アジャータサットゥが「今宵はいったいどの沙門から話を聞くとよいだろうか」と家臣に問うと家臣たちは六師外道の名前を次々上げた。王はそれには満足しない。最後にジーヴァカが釈迦が自分のマンゴー園に滞在していることを告げると、王は象を500頭連れて向かうことにした。
向かってみると1250人もいるとは思えない静けさ。
王は釈迦に問いかける。
「様々な職業にはそれぞれに特別な技術があり、それによって彼らは自分や家族を喜ばせ、沙門たちに供養することができるという果報があります。けれど沙門でいることにはどんな果報がありますか」
釈迦は、「それを他の沙門に尋ねたか」と聞く。
王が「そうだ」と答えると、釈迦は「彼らの答えを聞かせろ」と言う。
それによって六師外道のそれぞれの説がここに紹介されるのだ。

さて、彼らのことをのり子が紹介しましょう。

①プーラナ・カッサバ

道徳否定論。
彼は因果関係を否定した。その理屈を、

行為に善悪はない→だから因果関係もない→カーストと因果に関係はなし!

と持って行った。
「行為に善悪がない」と言うのは、いかなる殺人、盗み、虚言も悪とはならず、祭祀、布施、修養をしても善をなしたことにはならない。
と言う言葉で説明される。

とにかくカースト制度を否定したいものと見える。
それと同時にインドでは輪廻説(死んだら別物に生まれ変わる。善行を行えば、いい身分に、悪行は低い身分へ)も信じられ、それがカースト制と結びついていたため、その初元である行為の善悪を否定することで、それにつならる輪廻もカーストも否定していったのだ。

それゆえ、道徳否定論となされる。

②マッカリ・ゴーサラ

宿命論。

彼はプーラナと逆で、輪廻論を推し進めたと言える。

実にかくのごとく、枡によりて量り定められた楽と苦とは、輪廻のなかにおいて終滅することもなく、また消長し、増長することもない。あたかも投げられた毛毱が、捲かれたる糸の終わるまで解けてゆくがごとく、愚者もまた賢者も、流転輪廻を完了するまでは、苦の終滅にいたることがないであろう。「沙門果経」

「輪廻浄化《りんねじょうけ》」と呼ばれる考え方で、解脱ではなく、輪廻が終わるまでの840劫《カルパ》の間つづく。(1劫=43億年)

今の自分の行動も、過去の輪廻の影響を受けている。
「悪い考えを起こしてしまうのも、過去の悪行のせいであり、いい気分になってよい行いをするのも、過去の善行のおかげである」とするから、これを突き詰めると、全ての行動は、最初に決められた因果に従うほかない。となる。
それゆえ宿命論なのである。
自分の人生が、生まれる前から全て決まっていると想像してもよい。過去の因果によってである。だとするとこの人生に積む善因悪因も決められ、次の人生も変える事ができずやり過ごすしかない。

彼は「輪廻浄化」のほかに、生きるものは十二の要素を持つと言う考えを持った。
「霊魂、地、水、火、風、虚空、得、失、苦、楽、生、死」
である。
生きるもの、あるいは人間がどういう要素によってなるかは、当時のインドの重要な興味の一つだったと言えるだろう。そのことは次のアジタによってわかる。

③アジタ・ケーサカンバリン

唯物論。
彼は人間を、「地、水、火、風」の四元素からなるとした。
それぞれの元素は独立して実在する。この世界にはそれ以外のものは存在しない!
人間もまた四元素の集まりでしかないので、そんな人間が死んでも水の要素は水に、地の要素が地に還元されるだけで、それ以上の意味はなく、結果として無に帰す。霊魂なるものは存在しないとした。
経典には「断滅論」とある。霊魂にくわえ自我などの「人が死んでもなお残ると想像される何か」などの概念の存在を否定した。

この世を四元素の動きとしてしか見ない。そのような見方は他でもない唯物論。

彼は世界を、
「善行もなく、悪行もなく、その果報ももちろんない」あるのは四元素のみ。
「この世もあの世もない」あるのは四元素のみ。
「親も子もいない」四元素の集まりであるヒトが二種類いるだけ。
のように受け取る。
そして、
「だからこそ、生きている間を悔いなく生きよう」
という考え方が起こった。

生きているうちはギーを飲むべきだ。たとえ借金をしてでも。死んだら何も残らないからだ。(マーダヴァ『全哲学綱要』)

アジタを中心としたこの考えの一派は当時のインドで「ローカーヤタ」と呼ばれ、「順世外道」と漢訳される。
数世紀を経てギリシャ、ヘレニズム期に現れるエピクロス主義(快楽主義)と非常に近い。

インド思想界から激しい非難もあったものの、六師外道の中で一番広く行われた思想であった。

④パクダ・カッチャーヤナ

七要素説。

彼はアジタの物質原理とともに精神的原理を立てる。

「地、水、火、風、苦、楽、霊魂

これらは互いに作用を与えることも、受けることもない。作られることも、作ることもできず、何も生み出さず、動かず、変化しない。全てが要素としてそこにあるだけだ、とする。

極端なまでの唯物論をたて、もし人が刀で人の首を切っても、人が人の命を奪ったことにはならない。七つの要素の間隙を刀が通っていっただけだ、と解釈した。

霊魂の不滅、自我の存在を認め、それらもまた常住不変であるとした。

⑤ニガンタ・ナーダプッタ

不定主義。

現在のインドにおいても国民の0.7%(およそ540万人)の信者がいるジャイナ教の教祖である。

真理に対し絶対的な意見を持つことの危険性を説いた。だから彼は何かを考察する際は、「こうである!」や「こうではない!」などの断定の語調は用いない。
「この視点から見ると、〇〇と言える」
のように論じるべきだとした。

彼の宗教は仏教と同時代に興起したばかりか、「ヴェーダ」の権威(カースト制など)の否認、解脱を目的としたこと、人倫の理法を守るべきだと主張したことなどと仏教の教えと重なる部分も多い。

が、解脱のために中道(だらけるのも良くないが、修行で苦しむことにも意味がない)を守るべきだとした釈迦に対し、ニガンタは苦行を勧めたこと、
自我はないと説いた釈迦に対して彼は要素実在説をもっていたこと、
法(この世の真理)を認めて人間はそれに従うべきとした釈迦に対し、常に相対的に物事を判断しようとしたことなど、
根幹の部分で対照的である。

⑥サンジャヤ・ヴェーラティプッタ

不可知論。

「けれど沙門でいることにはどんな果報がありますか」と王は沙門たちに問うていった。けれど皆の答えは的を射ず、納得はできなかった。
彼もやはり納得させることはできなかった。
彼はこう答えたのだ。

あなたがもし「あの世はあるか」と問うたとして、もし私が「あの世はある」と考えたなら「あの世はある」とあなたに答えるだろう。しかし、私は、そう考えているわけではく、また、そうでないと考えているわけでもない(「沙門果経」)

沙門果経には彼のこのような応答を「ヴィッケーパ(錯乱)」という言葉で表現している。
このようにサンジャヤは形而上的な問いかけに関しては、徹底して鰻論法と評される論調で応じ、回答を避けたのだった。

真理をあるがままに言葉にすることは不可能だと考えたらしい。故に、不可知論。

何らの実りもなさそうな思想に見えるが、彼の考え方は仏教にも影響を与えたのである。というのも釈迦の考えもこれに近いところがある。
釈迦もまた「死後の世界」や「世を隔てて結ぶ因果」があるかという問いに対して「そういうものは答えが出せない。証明のしようもない」と回答を避けた。
釈迦は回答をあからさまに避け、サンジャヤは言を左右して人を煙に巻いた、という違いがある。

ちなみに、釈迦の弟子の中でも有名で、双璧として知られるサーリプッタ、モッガラーナの二人は釈迦に出会う前にはサンジャヤの弟子であった。釈迦と出会いその思想を聞き、すぐに理解できたのも、釈迦・サンジャヤ両者の思想が似ていたためだったと推測できる。

以上が六師外道の紹介を終了する。

仏陀の入滅以後も仏教以外に学派は存在し哲学論議はなされ続けた。仏教は時にそれらの理論を吸収し発展させ、あるいは反発した。

古代、インドとギリシャ

インドに「この世界は何によって構成されるか」についての哲人が現れたのと同じ時代、はるか西方でもまた哲学論争が盛んで、やはり同じような疑問を持ち、議論に明け暮れた人々がいた。

古代ギリシャ人である。

ターレス、デモクリトス、アリストテレスなどなど。
似てる、と感づかれた方もいるかもしれない。そしてこの両地方での歴史の近似を指摘したのはこれが初めてでもなんでもなく、擦られ続けたネタである。
今回はのり子が集めた限りの情報で、文章を続ける。

インドとギリシャで全く影響し合うことなく、お互いがそれぞれ独自に出来上がったかといえば、そうでもなさそうだ。

強く影響しあったとはいえないが、ある程度の世界観の交換や、文化の流入流出など横の流れもあったということである。


シルクロードは紀元前1000年あたりから形を持ち始め、シルクロードとして明確になるのは紀元前250年あたり。
砂漠を横断するキャラバンがやがて貿易の重要な仕事を担い始める。それと同時に、東西の文化を交換する役目を果たしたのだ。

読書してたら見つけた情報

ドゥ・ヨング『仏教研究の歴史』によると、確認されているうちで、ヨーロッパにおける一番古いインドについての記述は紀元前300年ごろ、マガタ国のパータリプトラ(インド北西)を訪れたメガステネースによるもの
残念ながら文献自体は残っておらず、彼の記したことを活用した他のギリシャ人の文章が残っているのみである。
が、沙門、波羅門についての記述はあったと見られる。

きちんとした形で仏教のことがギリシャ資料に現れるのは、紀元200年ごろになる。
クレメン『ストロマテース』という本で、「ボウッタ(ブッダのこと)の教えに従い、彼を神と崇めるインド人」たちのことが述べられている。

さらに東西の行き来が示される歴史的な証拠として、

ディオン・クリュソストモスは、彼がアレクサンドリヤの市民に講演したとき、聴衆のなかにはバクトリヤ人やスキュティア人、さらにはインド人もいくらかまじっていたと述べている。

をあげられる。少なくとも紀元後数世紀の間は、南インドからギリシャ、ローマとの間に盛んな交流があったと見ていい。

次は梶山雄一『大乗仏教の誕生』という本から

西アジアへのギリシア語の流入はきわめて古くから存在したが、当然のことながら、セレウコス王朝においてはギリシア語は広範囲に用いられた。さらにはインド西北部を含むバクトリア王国、インドに入ったサカ族、パルティア人、クシャーン王朝の諸王の鋳造した貨幣には、ギリシア文字が見られる。


(・・ターレス、デモクリトス、アリストテレスのいた時代。そして六師外道、釈迦の生きた時代、紀元前六世紀まで遡る東西の交流の痕跡はのり子は見つけることができなかった。インド・ヨーロッパ語族、のようにインドとヨーロッパには共通の祖先を持つのではないかという説があり、アーリア人が想定されたりするが、そこらへんのことはまだ詳しくないので書かない・・)

けれど、確実に言えることとして、案外、古代の国交往来は盛んなのである。
昔日本古代史にハマっていた頃、新潟で加工された翡翠石が青森や北海道まで運ばれていることを知ったとき驚いたものだったが、やはり古代人といえどその頭脳の活躍ぶりは現代に負けるものではない。

最後にのり子が学生だった頃から唱えているある一つの仮説を紹介する。

聖徳太子の耳について

聖徳太子は十人の声を同時に聞くことができた。

日本でもトップクラスに有名な偉人の逸話。
この逸話についてである。

上に書いたようにシルクロードはとても盛んに機能した。
その影響はもちろん日本にもあった。

 法隆寺が所蔵する獅子《しし》狩《かり》文錦《もんきん》や、後期の古墳から出土する海獣《かいじゅう》葡萄《ぶどう》鏡《きょう》という銅鏡は、その代表的な例になる。ライオンもブドウも、当時の日本にはないペルシアの動植物であった。
 六世紀末に築かれた奈良県斑鳩町の藤ノ木古墳からは、ペルシアから来たと思われる地中海産のコルクを用いた鞍が出土した。日本は六世紀の時点で、オアシスの道を介してはるか西方のササン朝ペルシアと繋がっていたのである。(武満誠『地形で読み解く世界史の謎』

ローマから出発し、
①中央アジアを通るルート
②その北を通るルート
③大陸の南を行く海路
大まかにこの三つのルートがあったと想像される。
そして長い旅路は中国まで辿り着いたばかりか、海を渡り日本上陸まで果たしているのだ。

六世紀といえば、法隆寺が例に上がっている通り、聖徳太子の時代である。仏教的にはちょうどこの頃、中国から日本に仏教が持ち込まれている。

と、一体何を言いたいのかというと、聖徳太子、「十人の声を同時に聞くことができる」ではなく、「十ほどの言語を用いることができた」という意味ではなかろうか。
それがいつしか、日本国内では日本語以外聞くことができなくなった時代に、変形されていったのではないかという説。

『維摩経』『勝鬘経』『法華経』についての義疏を記したほどである、中国語は堪能だったろう。もしかすると、それに加えサンスクリット語、中世ペルシャ語、はたまたギリシャ語まで習得していたのかもしれない。
クレオパトラが政治家として優秀であった理由は9ヶ国語を聞き分けられたという語学力にあった。
当時の日本代表の知識人としての聖徳太子にも、それくらいはできて欲しいもの……ドウカナ……??#

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