『女のいない男たち』を読んで。  


村上春樹 著


まいにち女のことを考えている。
手に入れたいひとりの女。
そしてそのこども。
もう、どう転んでもけっして手に入れることは出来ない。
自分の許に帰ってくることはない。
むかし、彼女らは自分に属していた。
というか、自分が彼女らに属していたというべきか。

離婚してから20年近く経つ。
離れて暮らすその歳月の中で彼女と彼を思い出すことはもちろんあったが、
しかし「会いたい」とか「また一緒に暮らしたい」などといった気持ちはほとんど起きなかった。
そんな事考えてもしょうがないし、現実の生活に照らし合わせて考えてもそれこそ現実的な方向性とは思えなかったからだ。

息子が二十歳になったのを機に、元妻は「会ってみないか」と提案してきた。
会った。
かつて自分の妻だった女は昔のように美しく、青年は母親に似てよい顔立ちで、スラっとして脚が長い。
感じのよい笑顔で、ほとんどはじめましてなのに人懐っこい雰囲気を漂わせていた。きっと多くの人が彼を見て好感を持つだろう。

会って以来、僕は毎日ふたりのことを思い出す。
けれどもうこの二人に会うことはとうぶん(もしかして永遠に)ないだろう。
主導権は向こうにある。
かつて妻だった女に婉曲に、そのような趣旨のことを示唆された。
僕も女のいない男たちのひとりだ。

村上春樹のこの短編集は期せずしてタイミングよく(いいのかどうかわからないが)僕の手許に回ってきて、そして読むことができた。
だいぶ前に、はるか昔に一度読んでいるが、内容をすっかり忘れてしまっていた。
映画になって評判になった作品もどんな話だったか思い出せなかった。
このたび再読してじゃあ思い出したかと云われれば、首をかしげる。
たしかに昔読んだはずなのにすっかり忘れていたので、ほとんどはじめて読むのに近い感覚である。20年ぶりに会う妻と子のようだ。
本を読むことを続けていて、よくあることでもある。

村上春樹にしては当時めずらしく文芸誌のために書かれた短編が五つ。
そして本書のための書き下ろしが最後に一篇。
どの作品も間違いなく、今の自分のたましい奥深くに沁み込んでくる物語だったが、しかしとりわけラストの表題作『女のいない男たち』が白眉。
まるで一筆書きのような逸品。鉛筆でささっと描かれたデッサンを思わせる。創作であるのは間違いないのだろうが、しかし妙なリアリティと、どこにもたどり着くことのない浮遊するいくつもの謎に満ちている。
いま読んでいる一行と次の一行との乖離。予測のつかない単語とインプロビゼーション。転調と破綻の、際どい塀の上を歩いている。
循環コードを無視した村上春樹のアドリブが効いているが、僕はこの作品を読みながら『騎士団長殺し』のまりえ(まりえだっけ?)が免色のクローゼットに潜んでいるくだりが頭をもたげてきた。サイコロの目は次に何を出すのかわからない。非常にスリリングだ。


別れた妻にメールを打った。
夜中に一晩中かけて打った。
眠れなかったし、云いたいことがあったから。
電話をしても出なかったというのもある。
我ながらとてもかっこ悪く女々しい。
たとえ電話に出てくれたとしても、きっと何を話してよいのかわからなかったに違いない。
長いメールになった。
読み返してみて、送信ボタンを押そうかどうしようか、迷った。
せっかくここまで打ったのだから、と思い、送信した。
けれど、すぐに後悔した。
あんなメールは送るべきではなかったのだ。
電話をかけて出なかったという時点でもう答えは出ている。
いや、その前にとっくに出ている。
20年近く前に、完全に。

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