当たり前ってなんだろう?
自分の加害性を認識して、3ヶ月ほどが経つ。GADHAでの関わり、プログラムは本当に勉強になる。自分が加害的であるベースにある信念、その表出の仕方、変容するにはどうしたら良いのか、そしてどうして自分が加害的な信念を獲得したのかということについて理解を深める事ができた。
善悪、優劣、上下、強弱、正誤などの二元論
当たり前、普通は・・・だよね、常識だよね、当然といった世界・他者の解釈
これらの信念・価値観がモラハラや加害的な行動を引き起こすときに根本にある思考回路であるという事がわかった。それからというもの、「当たり前、普通は、常識、当然」という発言には密かにぴくっと反応してしまう。ただ自分でもまだ、口癖のように枕詞に付きがちな「普通は」は口から出てしまうのだが。しまった・・・言ってしまったとその後に加害的な言動が続かないように気をつけるようにはしている。
その当たり前は、その普通は、その常識は、その当然は、誰のものなのか?
自分が言った当たり前は、普通は、常識は、当然は、その相手にもそのまんま当てはめていいのか。相手には相手の当たり前、普通、常識、当然があるとは考えないのか、あるとしても自分のほうが正しいと思うからそういう発言が口をついて出るではないか。自分が見る世界と他人が見る世界が全く同じなんてことはあり得ない。誰も自分と同じ様に世界を見ていることなんてない、この解釈や理解が相手の感覚ひいては価値観・信念を尊重し、加害のない関係を築く上で必要なのだった。GADHAで学ぶ以前の自分はまさに、優劣・上下、当たり前、普通は、当然の信念のもとに生きてきて、自分と同じ様に世界を感じ・見るように解釈の強要を繰り返してきた。自分の見る世界をパートナーが同じ様に見てくれないのは非常に怖く、自分が蔑ろにされているように感じたのだろう。その傷に気づければ、まだ加害的な行動を取らずに済んだのかもしれないがそうは出来なかった。加害的な言動により、自分の当たり前を押し付けようとした。
これらの気付きから自分の加害行動を内省しながら、GADHAでのプログラムの合間を縫ってGADHA以外からも変容するために必要な考えを取り入れるため、いくつかの本を読み進めてきた。今日はそのうちの1冊を挙げたい。
3ヶ月前にモラハラを自覚して、「そう言えば謝ったことって普段あったかな?」と思って購入したものだ。買ってすぐに読み切ったので2ヶ月半ほどたつが、自分にとっては勉強になった。詳細は実物を読んでいただきたいのだが、謝れない理由、気持ち、プライドなど謝ることから自分を遠ざけてきたものの説明は腑に落ちるものがあった。ああ、あの時、謝っていれば・・・「ごめん」の3文字で今も続いていた関係がいくつもあったのだ。たったこの3文字が言えないだけで、失うものはとても大きかった。それを学ぶことが出来たのだ。自分にとっては学びの大きい本であったことは間違いない。
ところで元妻も2ヶ月半ほど前に、アパートを訪れ自分が当時読みかけだったこの本をペラペラめくったそうだ。当時の電話の内容は覚えている。
「謝ろうなんて気なんてあったんだね」と。
そして「まあ、この本に書いてある内容なんて、私にとっちゃ当たり前で、常識で、当然のことなんだけどね。こんな本が出されるってことは世の中にはあなたみたいに謝れない人が山程溢れてるってことなんだろうね」と。
1ヶ月後、GADHAで加害的な言動・構造について学び、この電話の内容を何度も思い出すことになる。
今まで散々使ってきた信念、言動なんだけど、「当たり前、普通、常識、当然」って強烈な言葉だなあ。この一言で会話をぶった斬れちゃうし、同時に相手を傷つけることも出来る。でも、タイトルに戻るけど当たり前って何なんだろう。個人にとって当たり前、普通、常識、当然はあって良いものだと思うし、それがその人の世界の感じ方、捉え方、生きる指針であるのだと思う。でも、それと同じ様に別の個人にはその人の当たり前があるっていうことを尊重しないといけないよねって思う。多分イライラしてるとか、傷ついてるとか、自分を守らないといけない・自分を正当化しないといけないって感じたときに自分を守るための武器として当たり前って出てしまうのかな。
果たして時間が経って、自分にも今回みたいな機会が来たとしたらなんというんだろうか。少なくとも自分にとってどうかよりも、本の中身に言及できる人でありたいな。
自分はこの本、すごく読んでよかったと思う!
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